2ペンスの希望

映画言論活動中です

全身芸人 毒蝮 ヤジロベエ

毒蝮三太夫。こちらはTBSラジオで永らくパーソナリティを務めている関東圏芸人なので関西人には馴染みが薄いかも知れない。芸名の名付け親が立川談志(七代目)で落語『花見の仇討』に由来することははじめて知った。日大芸術学部映画学科出身ってことも。

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 「紙一重のところが聞いていて面白いんだろ?ここまで言ったら社会問題になるかな、客が怒るかなという、ヤジロベエが面白いんだ。な?この際どいのを生放送で毎日やっているわけだ。ヤジロベエは落ちたら駄目なんだ。どうして落ちないって?毎日、生でやっているからだよ。研がれているんだよ。病気して一年休んだりしたら、すぐにこんな風には喋れないんじゃない?人に会うことが刺激になるんだ。喋るっていうのは、人間に与えられた最高の娯楽じゃないの?

 

全身芸人 崖っぷち

田崎健太さんの『全身芸人』【2018年12月 太田出版 刊】を読んだ。

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元は『月刊 実話ナックルズ』 の「絶滅芸人」という連載記事だ。

プロローグにこうある。

本来、芸人とは日常生活の埒外に棲息する人間たちだ。舞台の上に立つ彼らの眼は醒めている。寄席の機微を肌で感じながら、ネタを微調整して笑いを取っていく。彼らには強い矜持がある。だから必要以上に客に媚びることはない。そして、勘の良い客は、家族や会社、組織に縛られない芸人の怖さを感じ取っているものだ。自らの足元は安全な場所に置いていることに安堵しながら、日常と非日常、聖と俗の境目を歩き回る彼らをげらげらと声を出して笑うのだ。

芸は刹那である。笑いは時代にぴったりと寄り添うものだ。そして、世間を席巻した笑いはあっという間に風化し、使い捨てられる。爆発的に売れる以上に、売れ続けることはもっと難しい。年をとるうちに時代の空気を感じる感覚は失われていく。だからこそ、表現者の先達として、年老いた芸人の生き様を追ってみたいとずっと考えていた。不発弾のような狂気を抱えた彼らは人生をどのように閉じていくのか、興味があったのだ。

最初に登場するのは月亭可朝。年配の関西人以外には記憶にない人か

もしれない。ググって頂戴。

 

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 こんな言葉を吐いている。「俺らみたいな生き方をしようと思ったらな、繊細で気が小さくないといかんねん。繊細でない奴は、崖っぷちを歩かれへん。崖っぷち歩こうと思ったらね、ここは滑りそうやから足をここに降ろそう、ここは小股で歩かなあかんという風に考える。

繊細で気が小さい‥表現者全般に当てはまる必要条件だろう。映画だって同じことだ。不用意・不用心ではイケナイ、いかない。スマナイ、すすまない。

カセットメタルテープ

昭和のカセットメタルテープの高品質が見直されていると聞いた。

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 アナログの極みvsデジタル。

軍配をアナログに挙げる人が増えているというのだ。

カセットテープ、とりわけ高品質なメタルテープは、低音域も高音域もノイズまで完全に記録、つまりは現場の自然音を丸ごと録音コピーし再現できるということだ。音に立体感があると専門家は指摘する。音があたたかい、音が太い、という人もある。

一方で、デジタルの場合は、どれだけ精細に分けようとも、波長をどこかでオンオフに変えて直線化するため、アナログの波形曲線をそのままに記録しないという。クリアな音質を追求するため、可聴域を超えた高音域低音域は切り捨てられ、ノイズもカットされてしまう。つまりは加工された音だということになる。

映画の世界でも同様かもしれない。

調べたり確かめた訳ではないのでいい加減な推察だが、銀塩フィルムやVHS磁性体テープまでのアナログ時代は、丸ごと記録だったものが、SDカード、メモリーチップ のデジタルの高画質は、ノイズカットのクリアー品質ながら加工度合いが自然界とは異なる仕様になって

いるのかも。だからどうだとも云えないし、今更時代は戻れないだろうが、憶えておいていい一つだろうと書いてみた。

(少し前だが、「神戸映画資料館」の映写室で、35mmフィルムと16mm、民生用VHSと放送用βカム、DVDとブルーレイを全部比較上映したことがあった。好き嫌い、好みもあろうが、DVDに比べVHSの音が柔らかく耳のこりが良かったことを思い出す。)

 

 

伝言( 切磋琢磨+削ることで豊かに)

映画は作り易くなったその一方で、作り難くなってきた。このことは、何度も書いてきた。機材の軽量軽便安価化、単独行の進行‥‥。反対に、歴史的映画の膨大蓄積、観客層の敬遠・離反、スタッフ諸職の後退、‥‥。娯楽・教養の必修科目から、端っこの選択科目・ワンオブゼンへ。そうも書いてきた。

正直 ナンギな時代だ。キツくヤッカイな局面。様々な要素が、複雑・高度化しながら、とっかかりやすくなってきた御蔭で、キャリアなしに参入する人が増えた。さしたる動機・蓄積なしに誰もが気軽手軽に作り始めることが出来るようになった。イケナイことではない。悪いともいわない。けど、イイともいえない。粗悪品、模造品が多数出回って、いかんともしがたくなっている。当管理人の現状認識はコレだ。

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映画専業で飯が食えた時代はとっくの昔に終わっている。映画とテレビの二足のわらじ。広告宣伝業界に身を置きながらの自主自弁趣味映画、別の仕事につきながらの兼業、‥‥、硬軟両様、水陸両用、両睨みの肉離れ 股裂き状態が続く。暗中模索の二律背反。ムズカシイ時代だ。つくづくそう思う。

そこで提案。

映画はそもそもが「贅を尽くした総合高級品」だったことを今一度思い返してみたらどうだろう。手も掛かればお金も時間も掛かる結構厄介な代物であったことを再度認識してみてはどうだろう。一年三百六十五日、四六時中映画のことだけを考えて生きた先達が沢山いたことを思い出してみるといい。お互いがお互いを意識しながら「切磋琢磨」して映画の峰を目指していた時代が日本映画には確かにあったのだ。

映画について考えて考えて考え抜いた彼らの到達点のひとつが「削いで削いでどんどん削いで、削ぐことで映画はますます豊かになっていく」ことの発見だった。と、当管理人は考えている。

ということで、

ロートル映画人から若い映画人への伝言。

「映画は贅を尽くした総合高級品。削ることで豊かになると心得よ」

「切磋琢磨は一人じゃ出来ない。徒党を組め」

スタッフを組むのは面倒臭い、うっとおしい。自分の趣味に巻き込むのは気が引ける、そんな「優しい」映画作家が増えている(ような気がする)。それって「優しい」ふりして「易しい」道を選んでるだけじゃなかろうか。「切磋琢磨」のそもそもの意味は 自己研鑽なんかじゃない。「複数人が相互に競い合いながら磨き合うこと」だ。「我関せず・俺は俺の道を行く」という単独歩行では到達点は知れている。このことに気づかれたし。

韓国映画 出遅れて

21世紀に入ってからの韓国映画と日本映画のレベルの差は、歴然たる事実、積年の映画ファンなら誰しもが認めるだろう。その違いがどこからくるのか、百人いれば百の指摘があるにしても、だ。周回遅れほどのこの現実を避けて日本映画は語れまい。進めまい。

国家戦略、制作システム、原作依存とオリジナル指向、プリプロダクション重視、プロデューサー力、テレビとの距離(相互依存と隔絶非接点)配給・興行スタイル(ブロックブッキングの遺制とフリーブッキング、ワイドリリース、チケット税、‥etc.)検討課題は山積みだ。答えは一つじゃない。百の論点・議論を重ねるためには半端ない時間とエネルギーが必要だろう。一ブログ氏には手に余る。

今日は、彼我の差を一つだけ。

ソウル市地下鉄4号線 明洞駅近くにある開架映画専門図書館「シネライブラリー」建物内には2館5スクリーンがあり、映画を観た人は、1万冊あまりの映画関連書籍が閲覧できるそうだ。イイなぁ。

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韓国映画 遅参ながら

恥ずかしながら、中国映画、香港映画、台湾映画、 韓国映画などには馴染み薄く過ごしてきた。インドネシアフィリピン映画も疎い。

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 たまに見て、出来のいいのに出会うと嬉しくなる。とりわけ韓国映画は元気だ。いきがイイ。先日そんなことを話していたら、「何をいまさら」と若い映画好きに笑われ呆れられてしまった。

うっすらとは知っていたが、確かにアベレージは、今の日本映画とは比較のならない高水準だ。残念ながら、ジャンル映画も意識高い系もアート系もすべて負けている。というわけで遅まきながら少しずつ見始めているていたらく。若い頃から邦画と洋画という区分けだけで観てきた報いだろう。もっとも、「日本映画製作者連盟」だって似たような旧態依然だ。

毎年発表される「日本映画産業統計」だが「公開本数」「興行収入」はいまだに「邦画」と「洋画」の二分類だ。歴史的ゆえ変更が難しいのだろうが。「洋画」となると管理人のようなロートルにはアメリカ映画(ハリウッドその他)とヨーロッパ映画つまりは西洋産が浮かんでしまう。アジア映画が増えつつある現実は置いてきぼりと思ってしまう。映画に国境はない、とは言いながら、映画の制作事情は各国ごとに異なる。懐具合も台所事情も市場戦略もみな違う。

ちなみに、2020年は新型コロナという事情もあって従来通りとはいかないが、2019年の統計によれば、

公開本数

日本:1278本(邦画689本 洋画589本)

韓国:1944本 ‥2015年逆転してリードのまま推移

観客動員

日本:19491万人

韓国:22668万人

韓国の人口が日本の半分以下であることを考えるなら、年間に映画館に足を運ぶ回数は、日本1.4回に対して、韓国4.4回と三倍以上になる。もっとも統計にはレンタルや配信は含まないし、入場料金の違いといった事情もあるので単純比較は慎まなければならないだろうが映画に対する熱量の違いは確かだ。国家の支援体制・政策の違いも大きいだろう。1998~2003年金大中大統領時代に始まる映画助成は日本円で年間約150億円、映画エリート育成のため韓国映画アカデミーも設立された。

これに倣って、日本でも「映画は文化だ。だからこそ国家的助成を!」と主張するNPO法人「独立映画鍋」などの動きもある。ただ、申し訳ないが管理人は支持しない。「文化」というコトバに馴染めないし、「文化だから国家的助成を」という主張もなんだかいただけないからだ。助成や保護や寄付文化に頼る気になれない。⇐なんとも頑迷、保守狭隘なことで‥‥ゴメンなさい なのだが‥‥。

じゃあ、どうするの、と問われれば、正直答えに窮するけれど‥自力更生の旗高く進む、としか言えない。⇐南ならぬ北の匂い? 雲行き怪しくなってきたが‥暗中模索の匍匐前進 つづけるしかない。

 

「暗い中で皆で並んで‥」

映画って、暗い中で、皆で並んでみるもの

或るテレビ番組で、NHKのベテラン女性アナウンサーの「(監督にとって)映画って何ですか」という無粋な質問に、しばらく無言で考えていた監督が「二つ 答えていいですか」とおもむろにいった一つ目の答えがコレだ。二つ目は「ごく普通の何のとりえもない人間であった僕自身に世界の扉を開けてくれたもの」というものだった。コチラはイマイチだが、一つ目の答えは映画の本質を突いていると共感した。

えっ、誰の言葉かだって? 内緒。

「暗い中」「皆で並んで」‥そうなのだ。我々の世代は、映画館に足を運び、見知らぬ誰彼と、闇に包まれて映画を観たものだ。

大げさすぎるかもしれないが、映画が発明されてから一世紀あまり、人々はずっと暗箱の中で人間に出会い、世間や世界や社会の仕組みに向き合ってきたのだ。久しぶりに「映画って本当にイイものですね」の水野晴郎や大淀川長治先生を思い出した。二つ目の答えも「映画があって良かった」という感謝の言葉以外には聞こえなかった。

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申し訳ないが、この監督さんが作ってきた映画にはこれまで 感心したことがなかった。けど、あー映画が好きなんだなぁという思いは伝わってきた。好きであることと腕があることとは別だ。きっとそのこともご承知なのだろう その誠実も感じた。同時に、改めて映画作りの難しさ・奥深さを思い知る。まだまだ道半ば、先は長い。

今日は「憎まれ口」を叩いてしまった。

えっ誰だい、「今日も」だろうって半畳入れるのは。

そうかもしれないけど。