2ペンスの希望

映画言論活動中です

元町映画館10年目の本

ミニシアターの十年を綴った本『元町映画館ものがたり 人と、街と歩んだ10年、そして未来へ 』を読んだ。映画の現場を作り、映画の現場を生きる良書だった。

f:id:kobe-yama:20211012080025j:plain

プレスシート冒頭にこうある。

「映画を愛する小児科医、堀忠が呼びかけ、「観たい映画を上映したい!」と映画ファンが集まって作り上げた映画館」

発起人で大家の堀忠さんの〈覚悟と責任〉が気持ちいい。家賃収入は年間の固定資産税を賄える程度、一般社団法人という組織形態の選び方も爽やかだ。『贅沢な棺桶』づくりだという自負と自覚も清々しい。

二代目支配人の林未来さんの〈映画の観せかたを考える時期に来ている〉〈届けかたのアップデイト〉〈(テーマや問題意識を共有する)当事者やその周辺以外の人にどう観てもらうか〉という視点も切実だ。

映画監督森田惠子さんとの対談で、〈目利き館主によるミニシアターの目利きビジネスは80年代、90年代がピークで今はそういうスタイルではなくなっている〉という指摘もリアル。

御多分に漏れず、ミニシアターの運営は悪戦苦闘が続いている。

それぞれの場で、様々なトライ&エラーが重ねられている。

けれど、映画館は無くならないだろう。

(観客にとっても従業員にとっても)映画館はいろんなことを感じたり考えたりする能力を養い伸ばしていくところ」森田惠子監督はこう言っている。「どこかで好きなことを仕事にしていると、自分が好きなんだからがんばりたいという落とし穴があると思うんです。「いい映画を届けるという仕事の裏側には、本人がいろいろなことを感じたり考えたりする能力を伸ばし、人間としても成長していく部分が大事」ということを先輩たちが伝えていかなくてはならない。感じたり考える能力を養う時間を持てるような働き方が必要ですね。

映画館は、余計なものなく過ごすことができる時空間濱口竜介監督はこう言っている。「僕自身は何度も同じ映画を観るのが好きですし、たとえ1本であっても映画を観尽くしたと思えることはない。その1本を観尽くす環境として、やはり映画館がないと本当の意味で映画と向き合えないのではないかと常々思っています。

二人の監督の言葉も沁みる。時代の変化の中で新しい映画の送り出し事業がどんな形で可能なのか、アレコレ慎重に考えていきたい、そう思わせる本だった。映画の作り手志望の方の参考になるヒントも満載だが、何より、映画の送り手にならんする方に、(映画の配給や上映・広告宣伝を志望する若い層に、技術技能・業界知識以前を耕すための)恰好のテキストとしてオススメ。

Yellow Submarine

少し前にビートルズの本のことを書いたら、 アニメ映画『Yellow Submarine』1968 のことを思い出した。

f:id:kobe-yama:20210916102438j:plain

本棚のどこかには当時買ったペーパーバックスもある筈だ。

www.youtube.com若い頃は人並みにビートルズを聞いてきた。もっともローリングストーンズもジャズもシャンソンもそれなりに聞いていたので、ビートルズ命というほどのファンじゃなかった。それでも、リチャード・レスターの映画は何度も観た。このアニメ、ずっと英国製だと思ってきたが、どうやら米国産だったようだ。

ズレる アヤマる マチガエる「能力」

AI にまつわる本を何冊か読んだ。

囲碁将棋では人間を負かし、小説や映画作りの世界での導入研究も進む。けれど、まだまだ弱点があるようだ。嘘を見破るのは難しく、雑談も苦手だ。所詮、「ビッグデータの集積」と「探索の高速化」「評価関数の機械学習」にとどまっている、そんな話だった。「文脈を読む」ことにも長けていない。

人間の脳は予測し調整し身構える。だから、ズレて、誤り、間違えることが出来る。これは断然有利な「能力」だ。

f:id:kobe-yama:20211006100727j:plain

本の中に、「身体を持たず、頭脳だけだと"乾いて"いってしまう。身体と環境と知能にまたがる"ウエット"な存在を作れるかどうかがポイント(三宅陽一郎:ゲーム AI 開発者)とあった。「人口無能山登敬之精神科医とも。

美意識と倫理感は、逃げ足遅く肉体的にも脆弱な生物である人間が、集団を維持するために作ったシステム(中野信子脳科学者)という言葉も印象に残った。【引用はいずれも『僕らの AI 論 9名の識者が語る人工知能と「こころ」』2019.6.25 SBクリエイティブ 刊】

 

 

 

 

教訓 その参 未踏の沃野はすぐそばの遥か彼方に。

 

f:id:kobe-yama:20211006102400j:plain

映画が生まれてとうに百年を超えた。数千年の蓄積を持つ他の表現物に比べれば、まだほんのヒヨッコ、ヨチヨチ歩きの新参者に過ぎない。なのに、劣化が激しい。このままいけば、日本の映画は若木のまま立ち枯れてしまうんじゃないか‥‥そんな懸念から逃れられないでいる。杞憂だと嗤われそうだが‥その昔の日本映画の精進・精華を多少なりとも知ってきた世代としては、見過ごせない。

日本の映画状況は、玉石混交を通り越して液状化が止まらない、そんな思いに駆られて仕方がない。液状化をなんとかとめて、新しい土地を開墾する道が拓けないものだろうか、いやいや、もはや、未踏の沃野なんてどこにも残っていない、当分は泥濘の道を歩むのみ、長い雌伏・暗中模索を生きるしか無いんじゃないか、‥‥思いは日々千々にみだれるばかりだ。

哲学者の千葉雅也は著書『勉強の哲学』にまつわるインタビューに、こう答えている。

90年代までは、文化のデータベースをつくっていく時代で、まだまだコードの外に新しいものがあると期待する事ができました。しかし2000年代を経て、ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大方の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしまった。【「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義〝以後〟を切り拓く「勉強」論 】

NHKエンタープライズの丸山俊一は、編著『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』の末尾に、こう記す。【2017.04.25 NHK出版 刊】

そして今、様々なジャンルに細分化された、「サブカル」空間が広がる時代となった。そこには、どこにも「中心」を見つけ出すことも、「周縁」を発見することも難しい、広大なタコツボがあるように思える。

支配的なコード(鋳型)は出尽くした。更地は無く、あらゆることはやりつくされ未踏の沃野はあだおろそかには見当たらない。しかも、すべてはタコツボの中の自足、コップの中の嵐、‥‥。

本当にそうなのだろうか、

確かに時代は変わった。中心・中央は崩れ、誰もがインターネットという擬似「どこでもドア」を手にさらりとトライを始める新しい時代が到来している。デジタルネイティブ世代にとってはことさらそうだろう。だが、閉塞感・不安感は何時の時代にだってあった筈だ。だからこそ、歴史から学ぶべしなのだ。仔細にかつ大胆に歴史をふまえ、現場を再発見することを切に願う。

新しい彼らに伝えたい教訓シリーズその参は、「未踏の沃野はすぐそばの遥か彼方にある」そのために歴史をしゃぶりつくせ。コレだ。

 

教訓 その弐 現場を再考・再興せよ。

教訓その弐は、「 現場を再考・再興せよ。いまここを大切に!飛翔するために根をおろせ。」

思えば、何もかもが横並び、古典も新作も一緒くた。加えて、あらゆるものがリモートでどんどん事が済む時代になってしまった。映画作りも例外ではない。イマココの「現場」はますます痩せて、水っぽくなって、枯れていく。悲しい。哀しい。現場はときにうっとおしくまどろっこしい場所でもある。古参がのさばり、先輩風を吹かせる。理不尽が幅を利かせ、パワハラも潜む。けれど、現場がなければ何も生まれない、始まらない。失ってはいけない。逃げ出してもいけない。現場に根を張り、根を下ろせ、飛翔するために。

現場こそ最高とはとても言えないけれど、現場の「細孔から採光する」ほかは無いのだ。いつの時代もすべての栄養は「現場」に埋まっている。力士なら土俵に、アスリートならフィールドに、プレイヤーはスタジアム・ステージに、‥‥。ではさて「映画の現場」は今何処にあるのだろう? もちろん撮影現場だけが現場なんじゃない。映画の現場とは? 胸に手を当てて、しっかり深くそれぞれに考えてみて欲しい。

 

f:id:kobe-yama:20211006103215j:plain



現場:この厳しく甘く汚く豊かなもの。

「現場を再考・再興せよ。飛翔するために根をおろせ。」今日の教訓はコレ。

教訓 その壱 歴史の文脈・現場に返すこと、帰ること。

大学時代の友人が、久しぶりに書下ろし本を出した。北中正和ビートルズ』【2021.09.20 新潮新書

f:id:kobe-yama:20211006101130j:plain

ビートルズほど多くの本が出版され語られてきた音楽家は他にいないでしょう。」こんな書き出しで始まる。

それなのにビートルズについての本を書いてしまいました。定説を大きく覆すような事実や資料が新たに発掘、発見されたからではありません。ポールと握手した以外、回想録が書けるほどビートルズ接触した個人的体験を持っているわけでもありません。それなのになぜ?

矛盾するようですが、それは数えきれないほどの本が出版されているからです。本が増えるにつれて、重複を避けるための専門化が進み、細部の記述が詳しさを増しています。しかし皮肉なことに、細部に詳しければ詳しいほど、ビートルズの全体像がかえって見えにくくなっているようにも感じられます。‥‥中略‥‥この本ではむしろ森林浴のようにビートルズの魅力を味わい、その背景や歴史に思いをはせ、かつて受けた印象やいま受ける印象について語ろうと思います。解散から半世紀以上たったいまだから俯瞰的に見やすいことも確かです。

この本にはいろんな曲やミュージシャンが登場しますが、ほとんどYouTubeや各種ストリーミングサーヴィスで見たり聞いたりできますから、確認しながら読んでいただくとわかりやすいでしょう。便利な時代になったものです。

後進の音楽ライターの野田努さんの書評が的を射て素敵だった。サワリを少々。

「おそらく本書が他のビートルズ本と決定的に違うのは、著者ならではのグローバル・ミュージック的なアプローチによって、21世紀の現在からビートルズを捉え直している点にある。その現在とはブラック・ライヴズ・マター以降の現在であり、インターネット普及後の現在でもある。インターネットによって古いものは古くなくなり、若いロック・ファンは同世代の新譜よりも90年代のオアシスに夢中になる。悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる“イエスタデイ”を喪失した現在。時間の感覚も歴史感覚も20世紀とは何か違っている。
 本書『ビートルズ』が試みている「世界史のなかのビートルズ」という視点は、時代(60年代)からも場所(リヴァプール)からも完璧に切り離されてしまっているビートルズをもういちど汗だくのキャバーン・クラブのステージに上げ、労働者で賑わう港町を徘徊してもらうばかりか、それ以前からあった、彼らが生まれ育った環境から聞こえる音楽、つまり大衆音楽の大いなるうねりのような、いわばその大河へと案内する。その大河とは、昼も夜もない眩しい現在という光に隠されて、もはやあまり語られることもないかもしれない大切な過去のことであろう。

「古いものは古くなくなり悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる」今日この頃=便利な時代は、不便な時代でもあるという(このお二人の)嘆息・皮肉は、管理人も日々感じるところだ。

興味を持たれた方は、全文を是非。⇓

www.ele-king.net

さて、本題。

"ビートルズ"の存在を映画の世界に置き換えるなら、"ゴダール"ということになろうか。歴史を変えた分岐点。映画に出会った若い衆が、好むと好まざるにかかわらず、避けて取ることのできない巨人・巨像だろう。(含む:巨像を虚像だとする人士も)

その来歴・全体像をその時代・場所の空気を損なうことなく丸ごと味わい尽くす試み、それは浴びるほどビートルズを聞いて生きてきた北中世代の特権であり、同時に重要な責務・責任なのだ。

同様に、遅れてきた若い世代に向けて「権威としてのゴダール」ではなく、「生成としてのゴダール」を提示し続けることは、ゴダールを同時代に走り眺めてきた先行映画世代の仕事である。

「古いものは古くなくなり悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる」映画史の蓄積を今一度、

歴史の文脈・現場に返すこと、帰ること。コレが、教訓その壱だ。

 

 

 

武満徹 「死んだ男の残したものは」

武満徹に「死んだ男の残したものは」という楽曲がある。

f:id:kobe-yama:20210929064724g:plain

作詞:谷川俊太郎、作曲:武満徹。初めに歌ったのは友竹正則だったが、その後沢山な歌い手が吹き込み、合唱曲としても長く親しまれてきた。今日は、こんなのを。


www.youtube.com