2ペンスの希望

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誰もマエを見なくなった 其の2(コヤ篇)

マエを見なくなったのは作り手ばかりじゃない。
映画館=コヤもまた同じだ。
といっても、多少内部事情を知っているのは、大手が経営するシネコンではなくて、
いわゆる単館独立系と称されてきたコヤに限られるが‥。
数年前に聞いた話では、東京の単館独立系映画館で一年間に公開されるドキュメンタリー映画(業界用語では、非劇というらしい‥この言い方もなんだかなぁ‥)が300本を超えた、ということだ。
確かに、劇場公開されるドキュメンタリーはここ数年飛躍的に増えている。もっともこのことには、映画技術(撮影から編集〜映写にいたる技術)のデジタル化が大きく関与しているのだが、これはまた別の話。【デジタル化の話は、別の機会に書くつもりなのでココでは触れない】
もちろん、他人様のコヤで何をどう掛けようと構わない、自由だ。
けど、コヤもまたマエ(観客)を見ないで、ヨコばっかり見ているとしたら見過ごせない。
詳しくはこうだ。
もう本当に何が当たるのか、どんな映画を掛けたら客が来るのか、コヤにも分からなくなっている。興行のプロとしての勘と経験がモノを言わなくなっているようだ。そんな中、貧血気味で舌足らずの出来損ない劇映画を掛けるより、どこやら社会的にも意味(意義?)がありそうなドキュメンタリー映画、それも中央(=東京)で当たったといわれるドキュメンタリー映画をやっている方が見映えもいい、客も来るというのである。ドキュメンタリー映画も千差万別・色々だが、社会的な主題、政治的な主張を盛り込んだモノも少なくない。そんな映画には、支援者グループや運動団体が関わっているモノも多い。そんな背景から、コヤが云うところのタマ(前売券)が確実に見込めるのである。
一方、ドキュメンタリーの作り手からすれば、劇場公開というのは願ってもない話。これまでは敷居が高かった。というより、鼻も引っ掛けられなかった。昔も今も、劇場公開という“ハク(箔)”はそれなりに有効だ。劇場に掛かるといえば、支援者の張りにも追い風にもなる。
つまりは、コヤにとってドキュメンタリー映画は、ほうっておいてもタマが付いてくる(らしい)願ってもないブツであり、劇場公開したい作り手にとっても願ってもない箔付けなのである。かくてコヤ・作り手、双方の思惑が合致する。その結果、フツーの観客(お金を払って映画を楽しもうという客)は居心地が悪くなったり、置き去りにされたり‥。昨今の単館独立系の映画館は、時に勉強会か市民集会の会場、宗教団体の信者会みたいになっている。何度も書くが、コヤが何を掛けようと自由だ。実際ドキュメンタリー映画が多数見られるようになった最近の傾向はウエルカムだ。見ごたえのある映画も沢山ある。けど、見せてはいけない映画も掛かっているように思うのだ。映画よりも集会、表現よりも主題、になっているとすれば、如何なものか。
もっと単純素朴に映画を楽しむことが忘れられているのなら、哀しい。
玉石混交を通り越して、映画の“液状化”が進んでいることを危惧する。
作り手の世界も、見せ手の世界も、本当にマエを見ていない。大手・老舗も事情はさほど変わらないと推察する。作り手も見せ手も、ともに必死の自転車操業、止まれば倒れる。もはや日本の映画界はとても産業としての体をなしていないのだ。
よく、商業主義一辺倒の映画は駄目だ、アート作品や独立系の作家映画をもっと大切に、と言う人がいる。しかし、はっきし言って、日本の映画は、健全な商業映画としては成立しなくなっている