今日のお題は、「誰かが見ている」
十年ほど前に時代劇専門の東映京都の大部屋俳優福本清三さんに、似たような本【どこかで誰かが見ていてくれる ―日本一の斬られ役・福本清三著創美社2001年11月刊】があったが、ちょっと違う。けど、どこか似た話題だ。
拙管理人が長く一緒に仕事をしてきて、数年前に亡くなったキャメラマン牧逸郎さんから聞いた話。牧さんは、記録映画のキャメラマンからキャリアをスタートさせ、劇映画、PR映画、文化映画、ドキュメンタリー、TV番組、CFと幅広い仕事をしてきた。
出世作としては1981年『ガキ帝国』が知られる。
逸話は沢山聞いたが、忘れられないエピソードのひとつに、こんなのがある。或る時、『ガキ帝国』を見た観客から「あの時代には あの色の公衆電話はなかったはず。時代考証がなっていない、いい加減だ」と指摘され抗議を受けたそうだ。オールロケ、がさつで多忙な現場、時代考証の専門家なんぞついていない。それにクローズアップではなく背景にちょこっと写り込んだだけの公衆電話。それを目ざとく見つけ、間違いを指摘されたというのだ。そんな重箱の隅をほじくるようなオタク、取るに足らない枝葉末節、と斬り捨てることも出来る。それでもその指摘を憶えているキャメラマン(牧さんは、観客はホントに怖い、としみじみ云っていたっけ)がおり、それを聞いた拙も印象に残っているということは消せない事実だ。
つまり、云いたいことは数日前に書いた「映画の不純度」に通じる。
作り手たちが忘れてしまったり、見逃していても、映画は、どこかで誰かが見ているし、誰が見ているか分からない。映画のふくよかさ、底知れぬ深さは、誰かが見ているということ、その怖さ・恐ろしさにある。
その怖さを知ると、謙虚にならざるを得ないし、襟も正したくなる。
そうじゃないよという人たちは、レッドカード。速やかに退場されたし。