2ペンスの希望

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Plan 6 逆転&美=痙攣

機会があって、戦後間もなしに作られた教育映画を何本か見た。その中から二本。
1947年東宝教育映画株式会社のクレジットタイトルで始まる『こども議会』(丸山章治:脚本演出)
1954年企画製作:文部省 製作担当:岩波映画制作所『教室の子供たち 学習指導への道』(羽仁進:監督)。
いずれも製作当時は数々の映画賞を受賞した記録映画の「名作」である。
『こども議会』は、
戦後まもなくの東京の小学校。まだまだ雨具を持たない生徒が多くあり、雨の日は登校出来なくて授業もままならない。そこで“こども議会”を開いて意見を出し合い、子供たち自身で解決策を決めて実行に移す・・・、という教育短編映画19分。
『教室の子供たち〜』は、
小学2年生の担任女性教師が、子供たちの自主性・個性を尊重した教室運営に悩み迷いながらも、民主教育を進めていく姿を描いた教師向けの教材映画39分。
内容はともに戦後民主主義教育・民主的運営を進めるための啓発映画だが、
作りはまるで違う。
『こども議会』は、
あらかじめ練られた台本を周到に準備して撮影に臨み、割り当てられたセリフを子供たちが演じていく様子を段取りよく撮影していく作り方。一回の撮影で最大でも10分〜4分が限度だったフィルムカメラでは、撮影は、手際よく効率的にすすめねばならず、その頃としてはごく当たり前の方法だった。
一方『教室の子供たち〜』の方は、
子供たちがカメラを意識しなくなり慣れるまで待ってから撮影を始めた。そのためスタッフはかなり前から教室にカメラを持ち込んで、フィルムを入れずに空のままカメラを廻し続けた。やがて子供たちが飽きてカメラやスタッフに興味を示さなくなってからフィルムを装填して撮影を開始したそうだ。当時フィルムは高かった。昨日も書いたが、生フィルムと現像代で1分間1万円程度もした。長時間撮影・長廻しが当たり前のビデオ時代の今では考えられないことだ。隠し撮りではなく、子供たちの自然な姿・生き生きした表情をありのままに観察し捉えたこの表現手法は、当時はきっと画期的で新鮮だったことだろう。事実その手法の斬新さに評論家は喝采を送った。
しかし半世紀後の今見直してみると、表現手法の斬新さに比べて、映画の中身・内容がかなり図式的であることに気付く。(図式的というのが酷なら構図的だと言い換えてもいいが‥)強権的な姿勢で学級運営を進める男性教師、それに悩み迷いながらも子供たち一人一人の自主性・個性を尊重しながら民主的な指導に取り組む女性教師、そこに教育実習でやってきた女性教師のタマゴがからむという構図。よく見かける図式である。子供たちの表情の新鮮さ・豊かさに比べて、映画の骨格は、いかにもありきたりのパターンなのがなんとも貧しい。
逆に、『こども議会』の方に見直すべきものがあった。65年間という時間の漂白作用を経て、むしろ面白かったのだ。イマドキならヤラセだと批判されかねないほど「言わされている」感丸出しの子供たちの演技。しかし、棒読みセリフの隙間を縫って、子供たちの〈素〉の姿が仄見えてきて、実に微笑ましいのだ。当時の少年少女たちの純情なる〈地肌〉が生き生きと伝わってくる。
この印象の違い、決して良い悪いでは片付かない。方法論、演出スタイルの違い。
丸山章治の演技指導、現場で子供たちをその気にさせる演出。一方、事前に教室にカメラを持ち込むという方法論、その発見そのものが、羽仁の演出だった。スタイルは違えども、ともに見事な場の演出、空気の演出である。
ことほど左様に、映画は時代とともに、環境変化とともに、印象も評価も変わる
いかにも悩ましく難しい。けど、こうも云えそうだ。難しいからこそ、面白い。
ある映画の中で、
因習に縛られ古風に生きる姉が、自由奔放な妹に向かってこんなセリフを投げかける。
本当に新しいことは、いつまでも古くならないことだと思うの
この映画セリフを教えてくれたのは、若い映画ファンSさんという女性だ。
Sさんはさらに言う。
私は覚醒するような瀕死状態になれるような新しい映画が見たいだけ」と。全く同感だ。ハッと目が覚めたり、心が洗われたり、「参りました」と全身的にノックアウトされて腰が抜けるような映画にもっとモット出会いたい。埋もれた映画、まだ見ぬ映画。

もうひとつ、アンドレ・ブルトンが残した飛び切りの一言。
美は痙攣的なものであるにちがいない。さもなくば存在しないであろう
【『ナジャ』1962年現代思潮社刊 稲田三吉訳】
(この稲田三吉訳色々と問題があるとのことらしい。のちの2003年岩波文庫版 巌谷國士訳ではこうなっている。
「美は痙攣的なものだろう、それ以外にはないだろう。」
原語的には多分こちらの方が正しいのだろう。しかし、気の抜けたサイダーみたいで、なんとも締まらない。という訳で、拙管理人が若かりし頃出会ってイカレた稲田三吉訳を採用した。
念のため、フランス語に堪能な読者向けに原文を挙げておく。
La beauté sera CONVULSIVE ou ne sera pas.