2ペンスの希望

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食わず嫌い

昨日に続いて、「ゴダール映画史(全)」。
完全に食わず嫌いだった。もっとスノッブな本だと思っていた。違ってた。
JLGが語った真摯な憂国の書だった。映画という《自由の王国》の。
映画好きなら読んでみるといい。映画づくりの現場を体験した人には幾つも身に沁みる言葉が見つかるはずだ。
われわれは当時、(カイエ・デュ・シネマ)誌のまわりでしょっちゅう顔をあわせ、互いに映画について語り合っていました。それは映画という産業の一側面だとも言えますが、でも私はそのあとは、そうしたことが出来る場所を見つけたことがありません。ああしたことのなかからこそ、われわれの力が、われわれの映画の力が生まれ、それが当時のわれわれに成功をもたらしたのです。」「でも今では、映画の世界の連中は、互いに語り合うということをしません。とりわけ、自分たちがしていることについて語りあうということをしないのです。」「今では映画作家がほかの映画作家に向かって《俺はお前の映画が好きじゃない》といったことを言うということがありません。あってもごくわずかなはずです。だれも、他人の作品について考えていることを、それをつくった当人に向かっては言おうとしないのです。」【54p】
(以下、映画のフレームについての興味深い例示が続くのだが、あまりに専門的・技術的なのでパス。)
昨日のくだりの続きをひとくさりだけ。
この映画(『勝手にしやがれ』)はヌーヴェル・ヴァーグの後期に登場した映画です。それにこの映画は、守るべき原則というものをひとつももたずにつくられた映画です。守るべきものがひとつあったとすれば、それは、原則というのはどれも、間違っているか正しく適用されていないかのどちらかだという考え方です。」「要は、自分にできることをするということです。ひとはポケットに四フランしかもっていないときは、その四フランで食べてゆこうとします。ロックフェラーは、自分が持っている四十億フランで自分にできることをするのです。それが現実というものです。ひとは自分にできることをするのであって、自分がしたいと思うことをするわけじゃないないのです。あるいはまた、自分がもっている力をもとにして、自分がしたいとおもうことをするのです。」【56p58p】
(以下、映画を短くすることの要諦、ジャンプショットの発見へと話は続くのだが、ここも専門的なので割愛。一点だけ。「リズムというのは、ある制約と、ある一定の時間のなかでその制約を自分のものにしようとすることのなかから生まれる‥。リズムというのは、スタイルから‥‥制約とのぶつかりあいのなかでつくりあげられるスタイルから生まれるのです。だからといって、制約に屈従することが必要だと言おうとしているわけじゃ少しもありません。必要なのは、反対に、自分に力と柔軟性をつけるということです。」【59p】)
それにしても、翻訳のこなれが悪すぎる。どなたか、もっと分かりやすい日本語に訳し直して、映画系大学の必修教科書にしてみようという奇特な方が登場しないだろうか。もしかして既に採用しておられるのかもしれないが、そうなら「いいね!」を謹呈したい。