2ペンスの希望

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「映画」が溶けていく。

若い友人(といっても十分にオジサンなのだが‥)から聞いた疑問。最近の十代二十代はもはや「映画」という枠組みで映画を見てはいないのではないか、というのだ。スマホやPCのモニター画面で動画を見ながら、同時並行でメールやチャットをこなす「ながら視聴」が当たり前。そうなら、自宅でDVDを見るときにもいまだに部屋の照明を消すような拙なぞは、さしずめ旧石器時代の原始人なのだろう。
「場内が暗くなり、ファーストカットが始まってラストシーンまでノンストップで一気に観るしかない」そんな窮屈をイマドキ誰に強いられることがあろうか。「好きなところまで観て、続きはあとで」「お気に入りのくだりは何度も繰り返してリプレイ」そんな視聴が可能な時代に生きているのだから。確かにその通りだろう。「映画」が溶けていく。ロートルが「映画」と呼び慣わすものと、若い衆のそれとは言葉は近いが、似て非なるものなのかもしれない。キツイ時代だ。
最近フランク・キャプラの評伝でこんな言葉を読んだ。
暗闇で二時間、一度に数百の人々に話しかける男が二枚舌であってはならないのだ。彼の言葉は魂から発せられるべきであり、財布から出てくるようではいけない。」
【井上篤夫『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』:集英社新書2011年10月19日)】
いずれこれも歴史的古文になってしまう時が来るのだろうか。いや既に十分「古典」か。