2ペンスの希望

映画言論活動中です

風前の灯 後編

「風前の灯」について 続きを書く。
ここ数十年、とりわけ21世紀に入って、国産映画は、ヒエラルキーが弛み、メジャーとマイナーの差がなくなり、玉石混交を超えた液状化が進んだ。その結果、みそもクソも一緒くたになってマーケットに出荷される。人々にとって、自分の目の前に並ぶ映画のどれが良品でどれが紛い物なのかの見極めがこれまで以上に困難になっている。これが管理人の実感だ。若い世代については事態はもっと深刻だろう。百年を超える厖大な旧作が並び、毎週何十本もの新作が休みなくリリースされる。
その昔には、それなりの判断基準・ふるい(篩い)があった。例えば、劇場公開映画とⅤシネマ。大手配給作品と自主上映、‥‥。(かつての基準がいかほど意味を持ち有効・有用であったかについては議論の分かれるところだろう。)それが今や選り取りみどり、横並びに果てしなく情報が広がっている。かつての判断基準は一切無効、機能不全に陥っている。するとどうなるか。
カタログに頼り、歴史(的権威)に縋る傾向が強くなる。 何かしら縁があり見知った人、聞いたことのあるものになびく。つまり「安牌」を選ぶ。選んだ安牌が当たりだったらラッキーだ。けど、無印悪品・当て外ればかりが何度も続けばどうなることか。あまりの歩留まりの悪さに辟易し、映画なんてまぁこんなものかと見離す・見限るのがオチだ。
かくして、良品に出会うチャンスはますます遠のく。負のスパイラルが繰り返される。
風前の灯という状況認識が、風を起こすことを控えさせ、結果、事態を更に悪化させている、というこの悪循環。
昔の人は言っている。貧すりゃ鈍する。
この数十年の失策は、度し難く、罪深く、負債は思う以上に重い。