2ペンスの希望

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「出演」

今日は、自らの不明を恥じねばならない話。
何年か前から、ネットをはじめ紙媒体でも記録映画・ドキュメンタリー映画に「出演した」という表現をちらほら見かけるようになった。とりわけご当人の弁に多く見られる。
「出演」って、映画俳優でもあるまいに大げさな‥、「出た」とか「採り上げられた」とさらりと云えばいいのに‥そう思ってきた。つまり、「出演」という言葉に何やら違和を感じていたのだ。たしかに映画には出たのだろうが、出演って、何かを演じたの、何がしかのギャランティ(出演料)を手にしたの、と考えて、「出演」という言葉遣いがしっくり来ないでいた。しかし、よくよく(普通に?)考えてみれば、映画に出るのだから、何かを演じているのだ。それがありのままの自分であっても、こうあらまほしき自分であっても、普段着・スッピンの私であっても、「演じている」「扮している」ことに違いはない。散髪にも行くだろうし、お気に入りのファッション(流行衣装)で身を固めるのも自然なことだ。
映画に「出演する」ときには、人は誰しも何がしかを「演じる」のである、とはたと(やっとこさ!)気がついた。家庭訪問の前日、普段はひっくり返っている部屋を大急ぎで片付けたという経験はどなたにもおありだろう。
日頃、作り手の立場から、フィクションとドキュメンタリーは地続き・同じこと、程度の差があるだけ、映画は全て作りモノ(作り手の作為・作意の産物)とエラソーに主張してきたのに‥‥何たるザマか、面目丸つぶれだ。
映画は、スタッフの産物であるのと同じように、キャストの産物でもあるのだ。
昔『ゆきゆきて、神軍』という優れたドキュメンタリー映画があった。キャストは奥崎健三さん(ご存知ない方はググッてみればすぐ出てくる有名人。)、映画をつくったのは原一男さんらのスタッフ。奥崎さんは、映画の中でどんどん輝きを増し、単なる被写体・登場人物から、主人公・主役として堂々の演技(?振る舞い!)を披露する。カメラはスタッフとキャストの関係性・エスカレーションそのものを記録していく。とてもスリリングで良く出来た映画だ。
記録映画にはしばしば、「カメラの存在を消し去って、まるで自然」、「嘘がない」、「ありのままの真実を捉えた」、と持ち上げている(つもり?)の評を見かけるが、よせやい、
すべては作られたもの、切り取られ、並べ(替え・変え・代え・換え)られた「作為・作意の産物」なのだ。
(まさか誤解されることはなかろうが、作為・作意があるから駄目・間違っているというわけでは全然ない。むしろ反対。作為・作意のなさを売り物にすることの嘘の方がずっと害悪だ。百万倍いけない。 無邪気が微笑ましいのは小さな赤子だけだろう。いい大人が無邪気なのは困り者だ。)
ということで、今日は猛反省の一遍。 皆さん 失礼しました。