2ペンスの希望

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「店番をしながら書くことについて」

藤谷治『こうして書いていく』引用シリーズ(=ラクチン手抜きバージョン)
四つ目 「店番をしながら書くことについて」から。
私は自分の本屋を持ち、その本棚の後ろ側に空間を作って、そこで書いている。
(中略)
芸術とは同時に矛盾した二面を持つものである。すなわち社会と隔絶した別天地を建立すると同時に、まさにそのことによって、社会を反映するものだ。
芸術は社会の理屈に迎合しては作られない。しかし社会という存在をなかったことにしては成り立たない。芸術家というのは、放っておけばいくらでも世間から遊離して踊りの踊れる人間である。その踊りが喝采をもって迎えられれば、それだけ自分には才能が、個性があると思ってしまう。自分が世の中の流れに目ざとく掉さして、ゴマをすって踊っていることには気がつかない。世間はいよいよ見事な才能だ、偉大な存在だといって喝采する。
かたや、あたかも自分から世間の喝采を忌避しているかのような芸術家がいる。馬鹿な世間が誉めそやすのは馬鹿な芸術に決まっている、真の芸術は決して大衆に迎合せず、大衆からも認められることがないものだ、といって、自分の創作が売れないことを正当化する。どんどん自分の殻に閉じこもっていく。小さな呑み屋で売れっ子作家を罵り、女房の稼ぎで生活し、自分は駄目な人間と思うことで、自分を慰める。
二種の芸術家は一見正反対に見えるけれども、社会に対面していない点で共通している。社会に伴走するのも社会を軽蔑するのも、一面的であることに変わりはない。両面なければ駄目なのだ。そして社会とは新聞やインターネットで俯瞰的に見渡す「世相」とか「時代」のことではない。芸術にとっての社会は、一個の人間にとっての社会でなければならない。日経平均株価や政権支持率、視聴率やダウンロード再生回数といった俯瞰的数字は社会ではない。それは情報だ。家賃の支払い、電話の応対、接客、捺印、ごみ出し、近隣との付き合い、納税、通勤、長女の高校進学、屋根の修理。それが一個の人間にとっての社会である。社会に囚われず、囚われ、拘泥せず、拘泥するところに、芸術は創作される。
なんだか禅問答みたいだが、しかしこれは名人芸的な絶妙の機微とか、バランスというのとも違うようだ。バランスを取るというような悠長な話ではなく、それは間断なく続く反抗であり、否定だ。日常という姿で一個の人間の前に現われる社会を否定し、しかし同時に、地面から遊離する華やかな伽藍にも反抗する。この否定と反抗の振り子運動が芸術であるはずだ。
(中略)
私の店は開業以来赤字続きでもう十五年もやっている。家賃の支払いをするたびにもう限界だと思う。とりあえずこれを書いている今は、かろうじて店が開いているというばかりだ‥‥(後略)」
そう書いた藤谷さんの本屋「書店フィクショネス」は2014年7月23日「さらなる発展のため」に閉店したようだ。HPを覗くと、社会(家賃の支払い)モンダイではないみたい。「店主のアトリエ」として「創作活動に専念いたします」とあった。いかなる環境と心境の変化なのだろうか。窺ってみたい。