2ペンスの希望

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くたばれ作家の映画

諸悪の根源は、「作家の映画」にあるのではないか、そんな思いに駆られる。
カイエ・デュ・シネマの罪は重い。「作家主義」。彼らが登場するまでは、映画は「企業と大衆のもの」だった。カイエ・デュ・シネマに影響されて「作家とインテリのもの」になってしまった。日本ではH先生やYさんらが、「作家の映画」を標榜し始めて、時代は大きく変わった。変化はおそらくは必然だったのだろう。けど、「企業の映画は売らんかなの商業主義に毒されていて駄目。作家の映画こそ良心的で正しい」そんな皮相な嘘八百は止めてもらいたい。映画はそれほど単純なものではない。
他の表現物と映画が異なるのは、単独行ではないということだ。建築物に喩えられたり、「総合芸術」と呼ばれるのはそのためだ。様々な技能・才能が掛け合わされた共同制作・集団作業。昨今の機材の軽便化で、すべてを独りでまかなう「映画作家」が増えているとしても、映画が多彩で輻輳した工作物(交錯物!)であることに変わりはない。映画は作家個人のものではない。
関わった制作スタッフ・キャストのすべてと、それを担いで見せることに腐心する上映・
興行・頒布スタッフと、そして目にした観客のものだ。作家のマスターベーションなんか見たくもない。「作る人も見せる人も見る人も、かかわる人みんなが楽しんでもらえる映画を作る、そのために腕を磨く」四年余り前に亡くなった友人監督の口癖だった。
分かる人にだけ分かって貰えばいい、そううそぶき開き直る作家は、口を閉じて静かに切磋琢磨したほうがいい。