2ペンスの希望

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ラストシーン

ちょっとした趣向で、昨日8月15日木下恵介の『二十四の瞳』を観た。
数年前に見直して木下組の上手さに脱帽したことは、以前一度書いたことがある。(http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20130201「まっちゃん」)
何度も観ているのに、最後の場面は忘れていた。はてさて何だったのだろう、映画は何で終わっていたのかなと思いながら観ていた。ラストシーンは、暗雲垂れ込め降りしきる雨の中、海沿いの道を雨合羽でひた走る大石先生のロングショットの積み重ねだった。愛好家には笑われそうだが、完全に失念していた。失念していたというより、他のシーンの巧みさに目を奪われて、確かに見たはずなのに記憶から消えていた。
映画を見た後、何人かの人たちと残って話をした。
「謝恩会で贈られた自転車に乗ってひた走る大石先生の姿は、明るくも軽くもなかった。むしろ重苦しく暗鬱だ。しかし、そこにこそ木下の思いが籠もっている」とさも偉そうにまくし立てた。(「戦後民主主義の行く末を天才・木下は予感していたのだ。」とまでは言わなかったが‥)
今朝方、昨日同席していた映画好きの知人Uさんから、メールを頂戴した。
話に出たラストシーンの撮影エピソードを書いた本がありますよ、と教えていただいた。
横堀幸司さんが書かれた『木下恵介の遺言』【朝日新聞社 2000年7月 刊】
知らなかったが、横堀さんは永らく木下監督に師事されていた方だそうだ。
「百日を超す小豆島ロケの『二十四の瞳』でも、天気待ち、雲待ちは毎日の出来事だった。ラストシーンで大石先生(高峰秀子)が自転車に乗り雨の海岸をひとり帰っていく長回しの場面がある。小豆島の沖合いや、遠く四国の屋島に暗雲が垂れ込めた驟雨のロングショットだ。当時照明助手だった佐久間丈彦さんは言う。
「天気待ちが多くてね。このラストシーンの撮影で、天気はピーカンだったのできょうはやるだろうとライトを準備していたら木下さんが来て、『今日は屋島が見えない。いくら晴れてても屋島が見えなきゃ、江の島で撮ってるのと同じだよ。マージャンやろう』ってなっちゃった。ちょうどそのころ、高松に黒澤組の『七人の侍』のロケが来てて、次の日も曇りなら撮影はお休みだから、みんなで快速船に乗って見にいこうってことになっていた。で、次の日は案の定曇りだったので行こうとしていたら、木下さんがみんなに相手にされないもんだから、急に『ラストシーンは雨にする』なんて言い出して、それで雨を降らして撮影したんです。高峰さんなんか『意地が悪いわねえ』なんておっしゃっていましたけど」(山田太一編纂『人は大切なことも忘れてしまうから』平成7年 マガジンハウス刊)
確かに佐久間さんの証言は正しいのかもしれない。まったく同じ時期にデビューし、ずっと日本映画界で対等に論じられてきた木下恵介黒澤明である。ましてその黒澤に、乙女心の初恋を捧げた高峰秀子だと木下さんは知っている。自分を置いていかれて面白いわけがない。雨でも撮影を強行し皆の足を留めたかったろう。だがぼくは、それでもこのときの皆の憶測は当たっていないと思うのだ。
木下さんにとってこの作品のラストカットは、光射さず、雨が休みなく降り続く、暗く悲しい場面でなければならなかった。戦中戦後、ただ愛と善意と誠実さで生き抜いてきた一女教師の半生は、ピーカンの小豆島の海岸を銀輪きらめかせ自転車で帰っていく映像表現など受け付けないと思う。雨が音もなく降り注ぎ、空は限りなく遠く暗く、日本の過去と未来の重さがペダルを踏み続ける彼女独りきりのロングショットに投影されなければならない。そのとき雨と決めたのは、木下さん特有のナイーブな思いつきではあっただろう。がこの希代まれな天性のカンが、作品のラストをそのように方向づけたのだと思う。奇しくもこの名作は、黒澤に嫉妬したお陰でその思想性を誤らなくてすんだ。屋島にたなびく暗雲の何と切なく悲しいことか。それは木下さん自身の孤独でもあった。
」(前掲書173ページ)
Uさん 有難う御座いました。
畏るべし木下恵介、いや、畏るべし映画というべきだろう。60年前に作られた映画が、今も日々新たに発見され賞玩される僥倖。感謝と畏れを噛み締める。
*オマケを一つ。
   1954年(昭和29年)のキネマ旬報日本映画ベストテンは、
   第一位『二十四の瞳
   第二位『女の園
   第三位『七人の侍』  だった。