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梅ちゃん

平井玄さんの「ミッキーマウスのプロレタリア宣言」を読んだ。【太田出版 2005年11月 刊】平井さんは1952年生まれ・映画『山谷やられたらやりかえせ』の製作スタッフだ。本に、山谷の労働者「梅ちゃん」のエピソードが出て来る。備忘録的に残して置く。
「梅ちゃん」と呼ばれる小さな男がいた。身長一五〇センチあるかないか。顔は黒くシワクチャ。歯は抜け片目はつぶれ髪も薄く、一九八〇年当時まだ三十代前半なのに、どうみても六十過ぎにしか見えない。だが建設現場の肉体労働者である。腕相撲をしても、ふざけてど突き合いをしても、元気盛りの学生たちもまったく敵わなかった。焚き火の燃えカスとゲロと酒ビンだらけの山谷の街の路面を転がるように生きていた。
炊き出しや医療活動、公園での集団越冬行動などで日雇いの街にやって来る新参の人間たちに出くわすと、男だろうと女だろうと梅ちゃんはいきなり唾を飛ばし、泥を投げつける。衣服を汚す。そしてやにわに「金くれよ、千円くれ!」とニヤニヤ笑いながら、言葉を投げつける。
どこか自分と溶け合うような部分を持つ者に本能的に目星をつけては、必ずそうしていた。そして相手の反応を見る。身を固くし言葉じりをとらえて「正しい労働者」としての生き方を説教し始めるような者には、身を翻してすぐさま行ってしまう。ギョッとしてドギマギし、心の揺れを隠せない者には、「二千円くれよ、三千円くれよ!」とさらに追い打ちをかける。そして体を思いきりぶつけてくる。彼はそれを心から楽しんでいたのである。
どんなに汚れてもいい服を身につけていたとしても、人は着る物を汚されたくない。衣服は心の皮膜である。その軟らかい皮膜に唾を吐き、泥をなすりつけ、皮膚病に荒れた手を突っ込んでくる。そして何の労働の対価でもない金を要求する。どんな暴力的な威嚇もなく。
これはとてつもなく繊細な行為だった。相手の眼球の動き方、ちょっとしたしゃべり方、立ち方や歩き方を見分け、その体から立ち上る臭いを敏感に嗅ぎ分ける。さらに返される言葉の振幅を実に正確に測っていた。服を汚すことは、心の衣を脱いでくれ、オレと同じ汚れた人間になってくれ、という親密な挨拶である。「金をくれ」というのは、会った瞬間から、あるいは会う前からオマエはオレに借りがあるぞ、というメッセージである。言いかえれば、「オレは自分の存在をとっくにオマエに与えている。だから借りがあるぞ」という無上の贈与の言葉なのである。

後半・平井玄さんの注釈には首を捻る部分も少しある。
けど、梅ちゃんの見切りの凄さ・居合術には脱帽する。正解はない。答は無数にある。その反応で瞬時に相手を見極める。何かしら遠慮はないか、どこかに上下をつけて見ていないか(山谷の労働者ということだけで特別視していないか)その眼力は並じゃない。
今日はもう一つ書いて置く。
先日、仕事の中で聞いたエピソード。「明るいところからトンネルの中は見えにくいが、暗いトンネルからは明るいところがよく見える