2ペンスの希望

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奇跡の記録

相米慎二が好きだという若い映画人は多い。
勧められて『甦る相米慎二』【木村建哉・中村秀之・藤井仁子編 2011年9月インスクリプト 刊】を読んだ。 ←学者先生の小難しくこねくり回した論考に付き合うつもりは一切ないが、冒頭に置かれた濱口竜介さんの一文と、相米組スタッフのロングインタビュー、相米慎二自身の講演(1990年10月11日札幌大学)の三つは面白かった。
濱口さんは、1978年生まれ、1948年生まれの相米慎二とは親子ほどの年齢差だ。
読みやすい一文では無かった。どこまで理解できているか不安だが、勝手に要約する。
表情の連鎖で物語を作ってきた「撮影所の映画」が、類型化で「退屈」極まりないパラドックスに陥ったとき、逆に、積極的に(退屈の危険を冒して)「退屈」を愛でんとする映画が生まれてきた。相米映画は、撮影所の技術をもって、この「退屈」を愛でんとした最後で最初の(最初で最後の)世代である。容赦なくすべてを写し取ってしまう(と同時に写っているものを眞と思わせてしまう)キャメラの暴力性を十二分に承知・駆使して、キャメラの眼の前のありえない「奇跡」(あるかなきかの小さな奇跡)を記録することで、観客の「信」を引き出そうとする。「撮影所の映画」の正統を継ぐものであり、同時に「撮影所の映画」と「撮影所の外の映画」の区別を無にする試み・離れ業である。相米以降、観客は(それまで役者やスタッフに強いられてきた)苛酷さにさらされることになって今に至る。私(濱口)は、相米の遺志を継ぐ‥‥‥
何、全然わからんって。わからん人はほっとく。少なくとも管理人には「撮影所なき時代の映画人の切実・悪戦苦闘」が伝わる。ここには、フィルムからデジタルへといった変化とは比べられない転換点が指摘されている。