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四方田犬彦『映画史への招待』

少し前、新しい「世界映画史を」と書いたのを読んで若い知人から「四方田犬彦さんの『映画史への招待』は読みましたか」とメールを頂戴した。不勉強で読んでいなかったので早速近くの図書館にリクエストして読み始めた。1998年4月岩波書店刊。
当時明治学院大学文学部芸術学科教授として映画史を講じていた著者が、
最初、きわめて規範的な構成をもった世界映画史の教科書をつくろう」と意図したが、結果出来上がったのは「従来信じられてきた映画史の「規範」をめぐる批判の書物であった」と「あとがき」に書いてある。今から18年前、既に「産業としての従来の映画の決定的な衰退と凋落」とか「大衆娯楽としてはもはや全盛時代を終えてしまったのではないか」「映画にはもはや新しい分野は残されていないのではないか」「もう地上には新しい実験も前衛もありえないというポストモダンの認識」「映画には未来はない」といった言葉が巷には溢れていたみたいだ。もちろん四方田先生はこうした「言説」を認めていたわけではない。与するわけでもない。世間に流布するこれらの「言説」を「夜郎自大」と退け、いらだっている。ただ残念ながら、秀才と誉れ高い四方田先生にして、懐旧懐古でも未来展望でもなく、「映画を社会-経済-政治の発展の兆候として取り上げる」映画史でもなく、「どこまでも映画でしかありえない全体性」「すべてを統合した地点において、その全体と本質を開示する」「コンパクトな」映画史テキストは、難しかったのだろう。手に余ったのかか、手に負えなかったのか、手を引いてしまったようだ。
その後、日本映画に限っては新書版ながら『日本映画史100年』(2000年)その14年後には増補版『日本映画史110年』(2014年)【ともに集英社新書】を著わしたが、
「世界映画」史は日の目を見ていない。「地域分割」「時代分割」「層分割」という「三つの分割システム」を乗り越えて、最後のご奉公に宿題を済ませてみられては‥と嫌ごとを言ってみたくなった。御大H先生の鼻を明かす良い機会かもしれないし‥。
当然のこと、それは「アカデミックな閉鎖性やディレッタンティズムに陥ることを避けた」(71頁)ものでなければいけなかろうが‥。最後に長くなるが、72−73頁を引用する。
これから書かれるべきであろう映画史は名作の歴史であってはならないし、特権的な監督の思想やイデオロギー、あるいは技法の妙の歴史であってもならない。かといって、映画を単純に政治や社会状況に従属させて区分分類するものであってもならない。映画を構成している複数の層を同時に見据えたうえで、映画がみずからの身体をどのように認識するに至ったかを語る歴史でなければならない。繰り返していうが、歴史とは単なる過去の事実の蒐集ではない。またそれは、現実に存在する矛盾や衝突を都合よく隠蔽して秩序の制定に向かうといった、反動的な造話作用のことでもない。歴史に意味があるとすれば、それは現在に向けられた眼差しから自動化された認識を引き剥がし、それをまったき新鮮な視線のもとに蘇生させるところにある。現在を異化する機能の宿る場所としての過去こそ、歴史的探求が赴くところであろう。