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「構造」&「時空」  『中国ドキュメンタリー映画論』

佐藤賢さんという若い(といっても1975年生まれだからもうエエおっさんだが)中国文学・映画の研究者の本『中国ドキュメンタリー映画論』を読んだ。【平凡社 2019.2.6.】デジタルビデオカメラ登場以降の中国の独立(インディペンデント)映画を概観した300頁超。

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印象的な記述を二箇所だけピン止め。例によって長いがゴメン。

◆「ドキュメンタリーはドラマ性を語らないわけではなく、プリミティヴな生活にもドラマ性はあるかもしれないしないかもしれず、これは撮影時の運にまかせるほかありません。実際、生活の中にドラマ性に富んだ場面が出現する可能性が欠けているはずはありませんが、それは大事なことではないのです。多くの創作者はこの道理を理解しておらず、彼らは強烈な衝突がドラマ性であり、衝突に欠ければ見てくれがよくないさらには成功ではないと思い違いをしています。私の理解するドラマ性とは構造の問題です。映画の構造が合理的であるか、発展の動機が合理的であるか、転換、衝突は必要であるか、人物の関係、事件の配置が適切であるか、などなど、これらこそがドラマ性を構成する最も根本的なものなのです

【段錦川 談《八廊南街一六号》和《広場》】

◆ 映画『鉄西区』(2003年 545分:第一部:工場240分 第二部:街175分 第三部:鉄路130分)を作った王兵に佐藤が言及した箇所。

確かに、王兵のカメラには、獲物を狙って待ち構えるような視線は感じられない。もっと自由なカメラの視線を感じる。逆に言うと、見る者の視線も制限されることなく、自由であるということだ。それは王兵が、カメラを向ける世界をメッセージ=ことばに還元できてしまうような単純なものとしてみせることなく、多様な世界を多様なものとして見せようとしているからだともいえる。

このことは、日本のドキュメンタリー映画作家・土本典昭王兵へのコメントを想起させる。晩年、土本典昭はインタビューの中で、最近気になったドキュメンタリーを聞かれて、王兵の『鉄西区』を挙げている。土本は、「単純な感動」ではなく、「気になる」とし、自らの「根本の考え方とぶつかるところがとても面白い」と述べる。まず、ビデオによって九時間という長時間の撮影が可能になったことを取り上げ、「映画で根本的に考えなければいけないのは、映画の長さに対する考え方」だと語る。次に『鉄西区』の労働のシーンについて、PR映画で仕事の現場を撮影した経験から、「それがどういう労働なのかが、何回観ても見えてこない」と「労働」が撮れていないと指摘する。そして最も興味深いのが、『鉄西区』は「はじめにシナリオありき、できあがった映画のイメージありき、ではなくて、撮れたものから考えるという非常に今日的な映画」であるという指摘である」(土本典昭 石坂健治『ドキュメンタリーの海へ―記録映画作家土本典昭との対話』現代書館 2008年刊)

 土本の指摘を参考にすると、王兵の方法は、DV(デジタルビデオ)(でじたるびでお)によって可能となった「撮れたものから考える」という撮影を中心としたスタイルであり、事前に、テーマや意図、イメージを持って制限しない、枠付けすることのないスタイルであると考えられる。そのことは王兵にとって「フレーム=画面」がないことと関係があるのだろう。王兵は、「画面」について次のように述べる。

 画面とは映画において実際は存在しないものです。映画にとって画面の意味とは視覚上の平衡を指し、映画には時間と空間しかありません。(朱日坤・万小剛主編『独立紀録―対話中国新鋭導演』北京・中国民族攝影芸術出版社 2005年刊)

さらに、王兵は自らの映画の方法について、長回しとともに「時間と空間が一貫して私の映画における一切の言語の基礎」(同前 著書から)出ると述べている。

つまり、何か外在的なものを設定し、それに基づいてフレームによって世界を切り取り提示するのではなく、「映画=時間と空間」を自立させることこそが王兵にとっては重要なのである。

ここからは、[映画の構成・構造][編集]という二つの課題が浮かび上がってくるのだが‥‥、以下宿題。この項 つづく。


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