2ペンスの希望

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映画の抽象度耐力?

映画はつくづく難しい。

ピカソの絵を見て、だれも「実際の顔はあんなじゃない」とは言わない。或る朝、人間が昆虫に変身していても、文学では受け入れられる。映画ではそうはいかない。嘘くさい、作り物、リアリティーが無い、とあちこちから文句が飛んでくる。単に作りが悪い、チャチなだけなのに、求められるリアリティのハードルは格段に高い。

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何故だろうか。ちょこっと考えてみた。

映画の中の風景には、実物そっくりそのままの風景・シーンが出てくる。登場人物・演者も実在の役者だ。描く世界はスクリーンやモニターの向こう側に地続きに拡がっている。二次元(平面:ことば、タブロー)と三次元(立体:実世界・現実)の違いだろうか?どちらも作り手・表現者がいて、意図的に或いは無意識無自覚なままに手間暇かけて拵えた(こしらえられた)ものなのに。勘違いが改まらない。他の制作物に比べて、映画の抽象度耐力(?勝手にでっち上げた造語でゴメン。)は段違い。要求度はハンパない。

ありえない、原作と違う、イメージが壊れる、‥‥(小)うるさい限りだ。原作と映画は違う、漫画や小説とは別物、頭では分かっていても、身体が許さないのだろう。

もとより、一番の責任は作り手側にある。原作のストーリーをなぞり、エピソードを適当につなぎ合わせただけの生煮え・水割り映画がイヤというほど並ぶ。(戦犯其の一は、シナリオ・脚本担当者、現場統括の最高責任者=監督、最終ゴーサインを出したプロデューサー、そのいずれかだ。但し この件は今日は深入りしない。差し控える。)

一方、受け手側、観客・享受者の怠慢もある。僅かなお金と数時間さえあれば、事足りる。イージー・安上がり・お手軽な娯楽。ページをめくる必要もない。教養も基礎知識も不要。100%受け身でOK、無名・無明の闇での覗き見、チラ見も問題無し。

高度で高級なウデとワザの蓄積が必要な「練り物」を安逸にむさぼることが出来る。⇒間違って貰っちゃ困るが、だからダメだと言ってるんじゃない、そもそも映画という娯楽(芸術、芸能と言い換えてもいいが)は、こうした前提で切磋琢磨し、進歩発展してきて今(の成熟・衰微)に至る。

 

これまで繰り返し何度も書いてきたが、技術革新とメディア環境の変化で、「作り易くなった分、作り難くなった」映画の世界で、「新しい映画」を作り出すことは、今まで以上に難しくなっている。

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ハハキトク スグカエレ」 ではないが、

「エイガキトク スグカエレ」という電報を打ってみたくなった。(キトクは、危篤であり、既得であり、奇特。 カエレは、返れであり、帰れであり、還れ。)

えーっ、電報って何ですか?ですって。