2ペンスの希望

映画言論活動中です

映画=書物

札幌に住む従妹が面白い本を送ってくれた。中澤千磨夫さんの『小津の汽車が走る時 続・精読 小津安二郎』【2019年9月 言視舎 刊】小津にまつわる本は山ほどあるが、すこぶる面白かった。存じ上げなかったが、著者は女子大で国文を教える先生にして、全国小津安二郎ネットワーク会長さん。いやはやテッテ的な小津遊び、小津ごっこ、小津だらけ、小津まみれ、小津フリーク。病膏肓に入るの書誌学的碩学、手間暇かけた労作だった。(貶めてるんじゃない、褒めている。異論、異見もあるけれど、脱帽の逸品)

f:id:kobe-yama:20191022070720j:plain

今は絶滅した(?)ようだが、ビデオやDVDが出始めた頃には映画は映画館で見なければ映画じゃない」という映画館至上主義の御仁が少なからず居た。作り手の間でも、「フィルムじゃなければ映画じゃない。ビデオ撮影なんて邪道。」と言われてきた。幸か不幸か時代は変わった。

「まえがき」に中澤さんは書く。「この三十年で映画は書物となった。映画という文化が手軽に読めるようになり、読者はその便利を無意識に享受している。であるがゆえに、一時的な暗箱(映画館)の中の快楽の意味はかつてよりも大きくなっているかもしれない。難しい。‥‥ でもというか、だから、ここは強がろう。読者はかつてよりずっと簡単に入手出来るし、足りないところは想像力で補える。 ビデオ(LD、DVD、ブルーレイ)は、私の部屋を暗箱に変えてくれる。

中澤さんは、〈映画=書物・文学テキスト〉として精読に精読を重ねる。テキスト・クリティークの手法だ。「小津は偉大な研究テキストなのであるから、多様なアプローチがありうる。(「小津安二郎、愛読と研究の間」初出:NEWS LETTER ~小津安二郎監督を愛する人々のネットワーク通信 第85号 2015年3月)として、小津と小津映画を360度丸裸にする。重箱の隅々まで浚え堪能する。生前触れられることの少なかった女性関係まで虚実取り混ぜ赤裸々に語り、骨までしゃぶる。これを「品が無い」と批判した旧帝大元総長と教え子映画監督を攻撃する。

さて、これをどう見るか。

死者にムチ打ち墓石までを掘り起こす所業の是非。

拙管理人は是とする。

人類遺産として利用できるものはすべて活用すべし、と考える。

作者≦読者 作り手≦受け手 曲解誤読は読み手の特権・想像力のなせる業、だ。

 

【オマケ:附録】

女子大で教える中澤先生、昨今はYou Tubeで卒論を書く「強者」や、iPhoneで卒論を書く学生も現れた、と書いている。昔々は手書き原稿でないと卒論・修論は認められなかった。誰が書いたか分からないからだ。「うたた隔世の感

けど、中澤センセ 懐深く柔らか。You Tubeや欠陥DVDがテキストとして不備で駄目だ、と言ってるわけじゃない。「大切なのはテキストをきちんと明示するということの方なのだ。」と書いている。(「小津安二郎の陰膳、あるいはYou Tubeで卒論を書いてしまう」初出:キネマむさし 北海道武蔵女子短期大学2014年度中澤千磨夫専門ゼミナール 第12号 2015年3月)

末尾にはこうある。「もっともっと目を凝らさなければ。恐ろしい時代だ。」同感、異議なし。