2ペンスの希望

映画言論活動中です

マージナル≒崖っぷち

昔々、映画は娯楽か芸術かという議論があった。そんな時はいつも どちらかに決めなくってもいいんじゃないのという違和感がぬぐえなかった。娯楽だから低級、芸術なら高級というのは皮相でオソマツ、粗雑の極み。どっちでもOK、どっちもありで好いじゃない。そんな気分だった。

古今東西 芸術好きはどこにでも居る。純粋芸術 ハイアートとローアート、高級芸術と大衆芸術、アバンギャルドキッチュハイカルチャーカウンターカルチャーメインカルチャーサブカルチャーポップカルチャー、‥‥‥分類・分別すれば一安心。そんなのは学者研究者外野の仕事。現場の端くれとしてはひたすら腕と芸を磨くことしかなかった。

かつて鶴見俊輔さんは1967年『限界芸術論』を書いて芸術を三つに分類した。純粋芸術(Pure Art)、と大衆芸術(Populer Art)、限界芸術(Marginal Art)

f:id:kobe-yama:20210101165645j:plain

 『純粋芸術(Pure Art)』は
専門的芸術家がいて、それぞれの専門種目の作品の系列に対して親しみを持つ専門的享受者をもつ。絵画、彫刻、文学などがそれに当たる。


『大衆芸術(Popular Art)』は

専門的芸術家が作りはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者として大衆をもつ。


『限界芸術(Marginal Art)』は
上の二つよりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を言う。非専門的芸術家によって作られ、非専門的享受者をもつ。『限界芸術』の代表的芸術家としてあげられるのは、宮沢賢治である。

(限界芸術=Marginal Art 今どきなら『マージナル(周辺・周縁)芸術』というところか。)

 

さてはて、今の映画はどうなのだろう。

映画のジャンルは広がった。純粋映画、大衆映画、限界映画‥どれもこれも商売繁昌・大盛況、そう言いたいところだが、少なくとも日本の現実は盛りを過ぎた閑古鳥、元気じゃない(というか、中身の乏しいカラ元気にしか見えない。)映画で飯を喰うプロフェッショナル「専門的芸術家」は減る一方、苦戦・後退戦が続く。文字通りのマージナル≒崖っぷち。末期的症状に憂鬱になる。

鶴見さんが生きていたら、どう思うだろうか。

 もっとも「暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた芸術的な表現」をすべて限界芸術Marginal Artとして評価しようとしてきた鶴見さんなら、周縁に向かうことは中心に向かうことと等価である、と肯定的・楽天的に捉えるのかも。鶴見さんの胃袋の大きさ  見習うべきかもしれない。