映画は「肌で感じる」ものである。
少なくとも私が長く接し愛好してきた映画はそうだ。決して目や耳で見たり聞いたりするだけのものじゃない。全身で、五感(五官)を総動員してひたり味わうものだ。今更だが、映画館はそのための装置・箱である。
闇に包まれて、肌で感じる。肌が合う・肌が合わない、鳥肌が立つ、さぶいぼが出る(←関西限定言葉みたい)、肌理が細かい、粗い‥‥。
かの独の W.ベンヤミンは映画を「気散じ的な触覚的知覚」から捉えようとしたし、仏のJ.ランシエールは「映画とはもともと異種混淆的で不純な芸術だ」と断じる。
さらに言うなら、映画は「湯浴み」である。
日々の入浴・垢落とし、温泉の愉悦・骨休めから、聖なる斎戒沐浴、滝に打たれての修行まで、全身的体験なのだ。
さらにさらに風呂敷を拡げるなら、湯を浴び肌で感じる映画は「忘我」であり、「脱自」である。つかの間、自分を忘れる愉悦。映画は、自分であることから「抜け出し」自分が「溶けていく」非日常体験である。