2ペンスの希望

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省略こそ

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いまさら目くじら立てて云々するのもおこがましいが、そもそも映画は、"省略の技法"で見せるもの(魅せるもの)、"省略"の妙が魅力だった筈だ。

言わずもがな、見せずもがな、みなまで言うな、以心伝心、言わずとも分かる・分かりあえる、言わぬが花、きくだけ野暮、‥‥。

もっともそのためには、共通の理解、暗黙の了解、世間の常識、知識の共有、つまりは社会的・文化的コード理解の前提が必要だった。皆が知っている一般教養=基礎知識、常識。そこで優位だったのは、映画のコード理解が国や言語の壁を超えて敷衍できる普遍的・汎人間的なものであったことだろう。映画は国境を超える、と云われたのはそのためだ。日本人だろうと西洋人だろうと東洋人だろうと、大人も子供もだれもが分かる「映画的省略」「省略の技法」が磨かれ、洗練され、完成されていった歴史、映画史の根っ子にはそれがある。

裏返せば、それは観客(見る人・受け手)の想像力をとことん信じるということだろう。信じるというより、怠けさせない真剣勝負を挑んでいる、というべきかも。作り手たちは、誰にどう見せるかに腐心して創意工夫を重ね切磋琢磨してきたのだ。

見せないで見せる。高峰秀子のエッセイに「成瀬(巳喜男)監督は、〈セリフを洗う〉といって必要のないシーン・セリフをとことんまで削っていった」という逸話があった。

 昔っから、漫画は好物なのに、アニメには全く食指が動かない。理由ははっきりしている。漫画は、映画と同様「省略の産物」だが、アニメは、動き=モーションのプロセスを事細かくつぶさに描き出す「反・省略」技法を得意とするからだ。漫画はコマワリで、カットを飛ばして進む。一方、アニメは、省略せずに動きをことさらに誇張し強弱をつけることで、実写のスローモーション・時間の細分化・引き延ばしとはまた別種の表現を可能にした。それはそれで素晴らしいことだ。否定しない。モーションキャプチャーモーショングラフィックスの技術進化は凄い。けど、映画とは違う。良い悪いではない。誇張・強調の視点・手法が異なるのだ。別種の産物だと心得る。それも系統樹としてはかなり早目 大元から分岐している。従って興味なし、というわけだ。(瀬尾光世ら初期の漫画映画は別。受け付けないのは、ジブリ以降。永らくご無沙汰しているWディズニー映画は微妙。)