数少ない当ブログの読者から私信メールを頂戴した。
「アンタが昨日書いた「映画は空間芸術である」1936年頃とっくにヴァルター・ベンヤミンが書いてるよ」と教えてくれた。
本棚から引っ張り出して読み直してみた。
「映画を「奴隷のためのひまつぶし」と嫌っていたフランスの作家・デュアメルに、ベンヤミンは建築を例に引いて、こう反論している。
「建築こそ、古来、つねに人間の集団が散漫に接してきた芸術の典型であった。‥‥(中略)‥‥ 建築にたいする接しかたには、二重の姿勢がある。すなわち、実用と観察、より正確にいえば、実際型と視覚型である。視覚型における瞑想に対応するものが、実際型には存在していない。実際型の姿勢は注意力の集中という道ではなく、むしろ習慣という道をとる。建築にたいするばあいは、視覚型の姿勢でさえ習慣によってつよく規定されるものである。視覚型の姿勢にしても、がんらい精神の緊張と結びつくよりは、むしろなんでもないふとした印象と結びつくことのほうが多い。‥‥(中略)‥‥ 歴史の転換期に人間の知覚器官がはたさねばならぬ課題は、単なる視覚つまり瞑想によってでは、決して解決されないのだ。それは、実際型の姿勢のなかで、習慣化をとおして、しだいに解決されるのである。
散漫な受け手も、事物に馴れることができる。‥‥(中略)‥‥ 芸術がそのもっとも困難かつ重大な課題に立ち向かうのは、芸術が大衆を動員できる場所においてである。目下のところ、その場所は映画のなかである。‥‥(中略)‥‥ 映画館内でのこの観客の審査の姿勢はいかなる精神の集中をも必要としない、観客はいわば試験官である。だが、極めて散漫な試験官である。」【『複製技術の時代における芸術』晶文社クラシックス版 1999年11月 高木久雄・高原宏平 訳】
そうだよね、瞑想・集中と散漫・気散じの二重性。ずーっとずーっと前から具眼の士には分かってたんだよね、と大昔読みながら中身をすっかり忘れていたことは棚に上げ、不遜にニヤニヤした。