「ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く」という作がある。
文学の世界では"ただごと"俳句は貶められ、"ただごと"短歌は評価されるという傾向があるようだ。
角川学芸出版『俳文学大辞典』には
〈俳句の日常性を主張するあまり、日常茶飯事のことを詠んで足れりとする傾向に対する軽蔑の語として使われる。〉と書かれている。
一方、ただごと歌は、『古今集 仮名序』の註に中国古代の詩の技法六義の一つ〈雅〉になぞらえ〈思ったまま,感じたままを,比喩などの技巧を凝らさないで,ありのままに表現した歌〉と評価している。う~ん、当管理人はただごと句もただごと歌も両方支持派だ。
同歌集 より
次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く
信号の赤に対ひて自動車は次々止まる前から順に
どうだろう。取り立てていうほどのこともないただごと=普通のことが孕む不安・不穏・不吉。まるでサスペンス映画のワンシーンみたいじゃないか。
運転手一人の判断でバスはいま追越車線に入りて行くなり
これもいい。つぶさに画が浮かび、緊張が走る。
奥村短歌、他にこんなのもある。
「ロッカーを蹴るなら人の顔蹴れ」と生徒にさとす「ロッカーは蹴るな」
ただごとが孕む暴力性。ちなみに奥村は中学高校で社会科を教える教師歌人でもある。「熱烈に、心の底から、まじりけなく思っている。本気で思い、本気でそう生徒に話している。」(小池光「局所の人」:同『奥村晃作歌集』所収) 本気の邪気 正気の狂気。
ただごと こそ ただごとじゃない、
そのお手本の一つ、ここにあり。