2ペンスの希望

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覚悟と責任

吉田喜重×舩橋淳の対談集『まだ見ぬ映画言語に向けて』を「砥石」として読み終えた。得るもの多く、気づきもあった。時世の違いも、自制も自省もあった。人間の幼少時の体験と記憶がどれだけ深く人間の生き方を規定するものなのか、感慨もあった。お二人とも誠実で真剣であることに疑いはない。きっと悪人でなく善人なのだろう。けど、どこか初歩のところで勘違いしているように思えて仕方がない、というのが率直な読後感だ。

▲〈見せる映画・見せられる映画〉を否定して(観客が主体的に)〈見る映画〉を、と何度も繰り返しておられるが、それって、無理じゃないの。〈見せられる映画〉〈見る映画〉どっちもありでいいんじゃないの。そもそもが、映画がなくっちゃ始まらないし。映画に限らずすべての表現物は「作り手」が先にあって「受け手」はいつだって受け身じゃなかろうか。生産あっての消費じゃん。(もちろん 消費が生産を促すこともよくあるし、需要あっての供給というベクトルもあることは十分承知の上だ)

もうひとつ文句を。

▲ 作家優先・監督独裁と観客との関係を「上下関係=権力関係」と規定してるけど、本当かな。実のところは、「並列関係」横並びなんじゃないだろうか。売り物買い物。だからこそ、「作り手」の意図・思惑・狙いとは無関係に受け止め、咀嚼・解釈・消費する自由勝手が赦されてるのだと思うんだよね。

▲ 反=映画、反=青春映画、反=メロドラマ、反=アクション、とも反=ドキュメンタリー、あげくは反=言語、反=政治、反=哲学、とホントにお二人反がお好きな御様子。ステレオタイプ、紋切り型、お約束がいけないのは分かるけど‥‥

これって、頭のいい人が陥りやすい視野狭窄?に見えてくる。(他人事で言うんじゃない。インテリの端くれとして拙管理人の自戒も込めて言ってるつもり)

僭越ながら、お二人にはもっと「大きく深い覚悟と責任」を求めたい。大人になった人間に大事なのは、とどのつまり この二つじゃなかろうか。(ん? 飛躍が過ぎてさっぱりわからんって。舌足らずで申し訳ない。実はこのフレーズ、何度も書いてきた管理人の好物。ご興味の向きは、検索で過去倉庫へどうぞ ☞ )

 

あれこれ四方山 勝手な物言いを綴ってきたが、『まだ見ぬ映画言語に向けて』というこの本、なかなかどうして刺激的・示唆的であったことは確かだ。砥石としては上物だった。

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 ということで、最後に、拙管理人の今の映画観を――

「見たことのないものを見せてくれるか」

「見えないけれど確かにあるものを見せてくれるか」

ハードルはこの二つ。