2ペンスの希望

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「が」より「げ」

先日、神戸で開かれたイベント「まちで映画が生まれる時」に出掛けてきた。

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数年間 神戸に住み着き、演者たちと「即興演技ワークショップ In Kobe」を重ねて映画『ハッピーアワー』(2015)を作った濱口竜介さんらが出席した会だ。濱口さんの応援団、保護者?スタッフたちが多数集まって賑やかだった。身内・仲間内が集まる会は、ともすれば内輪に閉じた仲良し同窓会になったりして部外者には居心地が悪いことがママあるのだが、打ち解けた気持ちの良い会だった。

正直、ご当地映画は苦手だ。行政自治体や地元経済団体、有力者たちが音頭を取って、時には大手広告代理店が絡んで、中央(=東京)から「プロ」の映画人を呼び、地域にまつわる「映画」を作る事例は掃いて捨てるほどある。謳い文句は、地域振興・町おこし・活性化の起爆剤。映画で地域を元気に! 映画屋さんにとっても、地元にとっても喜ばしい話だ。Win-Winでどこが悪い。外野や部外者がとやかく言うことではない。そんなことは分かってる。けど、地元の映画館で上映して関係者だけで盛り上がってるだけの文化祭・学芸会レベルの映画では情けない。勿体ない。作り方はどうでもいい。出来た映画の質・レベルが問題だ。

濱口さんの映画には、ご当地映画を超えた力が宿っている。それは外国の名だたる映画祭で次々に評価されているからではない。エラソーに言うが、映画の厚み・奥行きが違うのだ。未見の諸君は、一度騙されたと思って見てみてほしい。その上で文句があるなら受けて立つ。

会の中で濱口さんが語った言葉が印象的だった。「(演技ワークショップも映画作りも)やっている途中は、何が出来るか誰も知らない、分からない。」そうなのだ。作っている間は、どこまで行けるか、頭低く腰を入れて手探りで進むしかないのだ。

数日前に読んだ小川洋子さんの本の一節を思い出した。「作家は自分一人で、全くゼロの状態から小説世界を作り上げる。だから時々、自分を王様だと錯覚してしまう瞬間がある。それはとても危険な状態で、王様だから何でも自分の好きなようにできるのだと浮かれてしまったら、途端に小さな脳みその壁にぶち当たり、つまらない小説しか書けなくなる。いい小説を書こうと思ったら、自分自身を超えた場所まで想像力を羽ばたかせる必要がある。王様ではなく下僕となって、物語の声にじっと耳を澄ませなければならない。小川洋子『科学の扉をノックする』6章 平等に生命をいとおしむ学問〝遺体科学〟2008年4月 集英社 刊】

単独行の小説にしてそうなら、集団総力戦の映画づくりならなおさら。人柄も思想も能力も、持てるものを出来る限り注ぎ込んでこそ世界がひらけてくるのだろう。

もうひとつ、思い出したのは綾小路きみまろさんの言葉。「オレがオレがの「が」を捨てて、おかげおかげの「げ」で生きる。

我より下。映画監督は王様じゃない。下僕だと心せよ。