2ペンスの希望

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伝言( 切磋琢磨+削ることで豊かに)

映画は作り易くなったその一方で、作り難くなってきた。このことは、何度も書いてきた。機材の軽量軽便安価化、単独行の進行‥‥。反対に、歴史的映画の膨大蓄積、観客層の敬遠・離反、スタッフ諸職の後退、‥‥。娯楽・教養の必修科目から、端っこの選択科目・ワンオブゼンへ。そうも書いてきた。

正直 ナンギな時代だ。キツくヤッカイな局面。様々な要素が、複雑・高度化しながら、とっかかりやすくなってきた御蔭で、キャリアなしに参入する人が増えた。さしたる動機・蓄積なしに誰もが気軽手軽に作り始めることが出来るようになった。イケナイことではない。悪いともいわない。けど、イイともいえない。粗悪品、模造品が多数出回って、いかんともしがたくなっている。当管理人の現状認識はコレだ。

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映画専業で飯が食えた時代はとっくの昔に終わっている。映画とテレビの二足のわらじ。広告宣伝業界に身を置きながらの自主自弁趣味映画、別の仕事につきながらの兼業、‥‥、硬軟両様、水陸両用、両睨みの肉離れ 股裂き状態が続く。暗中模索の二律背反。ムズカシイ時代だ。つくづくそう思う。

そこで提案。

映画はそもそもが「贅を尽くした総合高級品」だったことを今一度思い返してみたらどうだろう。手も掛かればお金も時間も掛かる結構厄介な代物であったことを再度認識してみてはどうだろう。一年三百六十五日、四六時中映画のことだけを考えて生きた先達が沢山いたことを思い出してみるといい。お互いがお互いを意識しながら「切磋琢磨」して映画の峰を目指していた時代が日本映画には確かにあったのだ。

映画について考えて考えて考え抜いた彼らの到達点のひとつが「削いで削いでどんどん削いで、削ぐことで映画はますます豊かになっていく」ことの発見だった。と、当管理人は考えている。

ということで、

ロートル映画人から若い映画人への伝言。

「映画は贅を尽くした総合高級品。削ることで豊かになると心得よ」

「切磋琢磨は一人じゃ出来ない。徒党を組め」

スタッフを組むのは面倒臭い、うっとおしい。自分の趣味に巻き込むのは気が引ける、そんな「優しい」映画作家が増えている(ような気がする)。それって「優しい」ふりして「易しい」道を選んでるだけじゃなかろうか。「切磋琢磨」のそもそもの意味は 自己研鑽なんかじゃない。「複数人が相互に競い合いながら磨き合うこと」だ。「我関せず・俺は俺の道を行く」という単独歩行では到達点は知れている。このことに気づかれたし。