2ペンスの希望

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配信(『スクリーンが待っている』③)

臆病でケチなので、動画配信サービスのサブスク(リプション)には手を出しかねている。「動画」や「コンテンツ」という言葉遣いにも違和感がぬぐえずにきた。

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名だたる世界の映画祭も揺れているようだ。劇場公開されない映画のコンペティション参加を認めない「動画配信締め出し」の保守姿勢映画祭もあれば、門戸を開いた映画祭(世界最古にして先進・革新?)もある。

西川美和監督は『スクリーンが待っている』でこう書いている。

「もしこれから作る作品が一度も映画館で上映されないということになったら、何を目安に作るべきか見失ってしまうだろう。たとえ予算を十倍かけて良いと言われても、これだけは、とひしと胸の内に守ってきた自らの核を手放すことのような気がする。けれど、六本木に住んでいようが、離島に住んでいようが、月に千円前後で世界中のあらゆる映画を同時に観られる時代は、決して悪くない。自分が文化的だと思い込んできた習慣がもはやそうではなく、別の文化に取って代わられて行きつつあるのかもしれない。新しくやって来る時代がまた終わりを迎えるころ、映画館はまだ生き残っているのだろうか。」

「頭を殴られたようにショックを受けた映画は、十九歳のときに秋葉原で買った十四インチのテレビのブラウン管で観た。十四インチで観たって、面白い映画はちゃんと面白いし、人の人生も変えるのだ。」

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身もだえのほど、よくわかる。

この数十年の技術革新・ビジネスモデルの新陳代謝は、眼が廻り頭がくらくらする。ざっとおさらいしてみる。

 

映画館の闇に包まれ、ひしめく観客の中でひたすら大きなスクリーンに見入った昔々の映画館=マスの時代から、パーソナル個の時代へ。

次には「パッケージ」(VHS,LD,,DVD,Blu-Ray)が登場。同時的に、映画のコピー・私有「ダビング」が可能となった。中断、一旦停止、中断視聴、倍速・早送り、巻き戻し、など制御自在・コントロールOKの時代がやってきた。受け身受容からの脱却は、ココに始まりイマに至る。

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続いて、BS・CS 衛星放送が始まり多チャンネル・専門チャンネル化が進んだ。

さらにPCインターネットの普及浸透で「ダウンロード」コピー・共有時代へ。YouTubeには、無数の映画がアップロードされ、無料視聴が実現。

そして いよいよ「配信」=「アクセス権」ビジネス時代がやってきた。

ここらあたりになると、お金を払う対象は、《ソフト(=映画の中味)》ではなく「アクセス権」という《サービス》に変わりつつあるみたいだ。個々の品質云々より、サービス(=場の利用権・利便性 いつでもどこでも・即時応答性  在庫品揃えの豊富さ etc.)が問われる時代ということか。「モノより体験」「コンテンツ(内容)より利便性」重視というわけだ。いつでもどこでもスマホで動画を楽しむ時代の到来。

懸念がなくもない。

昔話だが、二本立て三本立てはては四本立てなんて時代を経てきたロートル管理人は、お目当ての映画が大外れなのに思いがけない拾い物・めっけものをみつけてほくそ笑む経験を山ほど積んできた。配信時代にはそんな「思いがけない出会いが消失してしまう」んじゃなかろうか。かつては映画ジャーナリズムや批評家の評価もそれなりの参考になった。今や無理、全く頼りにならない。

ネットSNS時代の今も、目利き・指南役・アドバイザー・コンサルタント・ガイド・コンシェルジェ・キュレーターなどと称する人や記事は氾濫している。ビッグデータの解析・協調フィルタリングなどAIによる「お好み」「オススメ」メニューも並ぶ。けど、つまるところ 新しく映画に出会う若い衆には好きなものの周辺ばかりが提供されていく。(ロートルにはうっとおしくてお節介だが)そんな献立表を当てにして参考に食する人が少なからず居るようだ。さらには「コールドスタート問題」もある。そんな「おまかせ定食ばかりでは、胃袋は鍛えられないのでは‥というのが懸念1だ。

懸念2は、「耳目拘束」だ。

音楽配信なら耳を縛るだけなので、イヤホンで済む。「ながら」で楽しめる。けど、動画配信はそうはいかない。目と耳の両方を奪う。細切れ視聴を前提に作られるテレビドラマやお笑い番組ならいざ知らず、映画はスマホサイズの道中視聴というわけにはいかないのではなかろうか。映画はファストフードじゃない。スローフード ゆっくりたっぷり味わうたぐいの調理品だ。

映像・動画配信のユビキタス(いつでもどこでも)は、携帯スマホではなく、ホームシアターなどが主流になるのではなかろうか。とどのつまりは、人に平等に配分された24時間という時間の配分と、個々のフトコロ具合次第だろう。

もっとも明日のことは誰にも分からない。最後によげん(預言 予言)を二つ。まだまだ生煮えだがご勘弁願う。

「技術革新のもたらす変化を、既存の常識やこれまでの経験で語るのは危険で誤り易いので要注意。」

「技術が進化しても、人は進化しない。だが、人は成長できる。」

(この二つ、最近読んだ『音楽が未来を連れて来る 時代を創った音楽ビジネス百年の革新者たち』榎本幹朗 著【2021年2月 DU BOOKS 刊】からヒントを得た。)