2ペンスの希望

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「鑑賞するとは自分で作品を作り直すこと」

今日もまた、伊藤亜沙さんの本『目の見えない人は世界をどう見ているのか』【2015年4月 光文社新書から。

伊藤さんは大学で現代アートを教える先生だ。

鑑賞とは作品を味わい解釈することですが、鑑賞をさまたげる根強い誤解に、「解釈には正解がある」というものがあります。多くの人が「正解は作者が知っている」あるいは「批評家が正解を教えてくれる」と思っている。もちろん、好き勝手に解釈していいというものではないですが、だからといって自分なりの見方で見てはいけないと構えてしまっては意味がありません。

大学で現代アートを教えるにも、まずは学生に「武装解除」させることが必要です。‥(中略)‥ 受験勉強の延長で「この作品の正解は‥‥」と構えてしまう学生の肩の力を抜いてあげる必要があります。

それではどうするか。まずは何の説明もなしにバーンと作品を見せます。たとえば、赤い地の上に滲んだ四角が三つ並んでいる絵。そしてそのままこちらはだまっている。アクティブラーニングという名の放置プレイなのですが、そうでもしないと学生たちは自分の言葉でしゃべりだしません。

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しばらくすると、学生が手をあげ始めます。「海苔の上に焼き鮭がのっているお弁当を上からみたところ」。なるほどね、と言いながらさらに別の学生の意見を待っていると、「布団を敷いてある」さらには「ポストの中に隠れて外を見ている」‥(中略)‥

要するに、自分が感じたその絵の意味を言葉にしてもらうのですが、物理的には同じ絵でありながら、人によって全く違ったふうに見ていることに、学生たちにまず驚いてもらうわけです。これが、「鑑賞とは自分で作品を作り直すことである」ということの意味です。

伊藤先生はさらに続けます。

ただし重要なのは、ひとつの作品からさまざまな解釈が生まれる、というその多様性を確認することではありません。そうではなくて、他の人の言葉を聞いたうえで絵を見ると、本当にそのように見えてくるのです。‥(中略)‥ 言葉を介して、他人の見方を自分のものにすることができる。「ああ、わかった」と納得できた瞬間、その人の見方で作品を見ることができたわけです。まさに「他人の目で物を見る」経験です。‥(中略)‥ それはまるで魔法のような変化です。鮭弁でもあり、敷布団でもあり、ポストの中でもありうるもの。芸術作品とは本質的に、無限の顔を持った可能性の塊です。(太字強調 引用者)

目の見えない人と目の見える人が一緒に絵画をみる「みんなで見る」という「ソーシャル・ビュー」という試みも広がっている。

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 大切なのは「客観的な情報」や「正しい解釈」じゃない。「多様性」でもない。どう見えるか、見える人も見えない人も一緒になってひとりひとりの感じる意味を「探し求める」道行。ミュージアム・アクセス・グループ MAR (Museam Approach and Releasing ま~)の林健太さんは言う。

見えていることが優れているという先入観を覆して、見えないことが優れているというような意味が固定してしまったら、それはまたひとつの独善的な価値観を生むことになりかねない。そうではなく、お互いが影響しあい、関係が揺れ動く、そういう状況を作りたかったんです。

情報ではなく、意味を探り合う

知識ではなく、解釈を拡げる

事実ではなく、経験を共有する

「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく行きつ戻りつ「揺れ動く関係」。

映画を見る見方ももっと広がると面白い。

読書会のように、読後感や読みの多様性が語り合われ、新しい発見・気づきが共有される体験としての映画鑑賞の拡張‥だって、良く出来た映画もまた「本質的に、無限の顔を持った可能性の塊」なのだから。