吉村萬壱さんの『生きていくうえで、かけがえのないこと』【2016年9月 亜紀書房 刊】から、今日はその②「ふれる」二箇所。
「じっと何かに見入る時、人は自分の目の存在を意識しない。何かを聞く時は、自分に耳があることを忘れている。手も同じだと思う。世界と馴染んでいる時の手は、一つの感覚器官であることを超えて世界の一部であるかのようだ。職人の熟練の手は言うに及ばず、網を手繰る漁師の手も、皿を洗う主婦の手も、鶴嘴(つるはし)を振るう建設労働者の手も、世界とのこの一体感を知悉(ちしつ)しているに違いない。」(太字は引用者)
どの表現物もそうなのだろうが、映画はとりわけ「世界との一体感」に優れたものだと思う。映画を見ている時、観客は「世界の一部」となって没入している。
「三十年後の未来にシンギュラリティ(技術的特異点)というものが到来し、人工知能が人間を凌駕する「2045年問題」という予測がある。それに伴う現象の一つに、人間の脳内データが全てコンピュータの中にアップロードされる可能性、ということがあるらしい。AI(人工知能)とは逆に、人間の方が電脳空間に移住するのである。即ちこれは、身体性を持たない不死の意識体の誕生を意味する。
触覚も一つの脳内信号であるならば、データ化は可能であろう。しかしそれは、3Dゲームのように、捏造された触覚である。電脳空間の認識主体は、生命の根源と完全に切り離されている。それは触れることを「感じる」ことは出来ても、触れることで自分の中を通り抜けていく何か大きなモノの存在は味わえない気がする。恋する男女の、指先が触れ合っただけで互いの全身を貫く喜悦感や、知らない者同士の触れ合いを介した思いがけない交感といったものは、コンピュータ上では一種のバグであろう。しかし生身の人間にとって、これほど大切なものはない。」(太字は引用者)
何処まで科学技術が進もうと、「生身の人間」にとって意味があり、価値がなければつまらない。たとえ機械的にはバグであっても。百年後もきっと変わらない。とどのつまり、映画は「生身の人間」(つまりはアナタやワタシ)が「何か大きなモノの存在にふれる」体験なのだ。