2ペンスの希望

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「ゴダール式読書術」

嶋浩一郎さんの新書『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』【2013年6月 祥伝社 刊】を読んだ。おっしゃることはよく分かる。

「想定外」の「無駄」な情報に出会うために 是非とも 毎日一回本屋に行こう。

基本 大賛成だ。

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けど、勇み足が気になった。「本は読まなくていい」のくだり。

これは映画にもいえることで、二時間ぶっつづけで最後まで見なければいけないと思うから、スマホで映画を見たりするサービスが、ある一定以上まで広がらないのです。本も映画ももっと細切れ時間にちょこちょこと見るという見方があってもいい。

本はパラパラめくっての飛ばし読みもOKだ。書き出しだけでこれは違う、私には合わない、と投げ出したり、あとがきを先に読んでアタリをつけたり。けど、映画と本は違う。早回しで見ては分からない。ラストシーンを先に見るわけにもいかない。「映画」と「本」は結構 遠い。むしろ「映画」は「音楽」に近い。全部聞いてはじめて分かる。納得する。その上でなら、サワリやサビを繰り返し視聴・堪能するのもイイ。オススメだ。

勇み足をもうひとつ。

使える!ゴダール式読書術

ゴダール式読書術」というのはそもそもは永江朗さんが『不良のための読書術』で提唱した造語だ。「映画は(冒頭の)十五分だけ見ればわかる」と、映画館を出て次の映画を見にはしごして浴びるように映画を見たという」ゴダールの若い頃のエピソードになぞらえ、「大事そうなところだけ20ページくらい読んで、おもしろくなかったらやめる。それでどんどん本を読む、という方法」を「ゴダール式読書術」と呼び始めた。確かに。「最初の十五分見れば、映画の質も作り手の手法・技量もわかる」というゴダールの主張は、管理人にも分かる。山のようにある映画を見つくすためには時間がもったいない。だから席を立って次の映画に向かうゴダールの気持ち、よく分かります。けど、スイスのお金持ちのお坊ちゃんと、極東の貧乏人の小倅、時間よりお金が勿体なくて、それに、最後までのどこかできっと目の覚めるような場面・展開があるかもしれない‥、そう思うと席を立てず、画面の隅々まで目を凝らして最後まで見る貧乏性が身についてしまった。(結果 大半は、やっぱりな、とがっかりするのだが)今に至るも、細切れ、飛ばし見は、しない、出来ない。

「たかが映画」とは分かっているつもりだ。だが「されど映画」

頑迷固陋と言われようと、このままいくつもりだ。

ゴダール式読書術」は使えても、「ゴダール式映画術」は使えない。

 ついでに苦言をもう一つ。

嶋さんのこの本、「企画力や斬新なアイデアのヒントのために本屋に行く」という根本が間違っている。効果・効率狙いはさもしい。本屋に行くのはただただ楽しいから気持ちいいからだ。映画館に行くのも映画を見るのも、同じこと。快楽だから、ドーパミンが出てくるから。正直にそう言えばいいのに。嶋さんもきっと解かってらっしゃる筈。けど、それでは今の時代、本は売れない、新書も出せないみたい。

苦しくキツイ時代になったもんだ。映画の世界も同じだけど、ね。