逝きし世のオリンピックについては書いても、今回の「TOKYO2020」については一切 触れないつもりでいた。ただ( 故 吉本隆明さんや 故 橋本治さんたちの足元にも及ばぬ〈二流〉の)テレビ好き、スポーツ観戦好きとしては、テレビ桟敷時間が始まっている。そこで宗旨替え。
「なんだかなぁ~」と思いつつも、感じるところの日々の毒を少々綴ってみようと発心した。一応、自分に言い聞かせる弁明・言い訳は用意した。(二流インテリの悪い癖だ)
その① テレビというメディアについて今一度 考える
その② スポーツという娯楽・余興の味わい方を考える
その③ マスメディアからネットSNSまで情報源の多様な広がりを踏まえて「映画」の再定義を試みる
(なぁに、御大層なゴタク、夜郎自大そのものだが‥)
今更ながらだが、テレビは生もの、ライブに限る。中継が一番面白い。事件・事故‥森羅万象の覗き見・只見装置。どこでもドア。
トップバッターは「開会式」のテレビ放映。
孫と一緒に見た。10歳男児が唯一拍手したのは、ピクトグラムのパフォーマンスだった。
ロートルいじわる爺さんは感心しなかった。ばらばら小ネタの数珠つなぎ、すべては想定内の展開。小手先のアイディアの羅列からは、感動も発見もなく、世界に向けたメッセージも見えてこなかった。どれもこれも代理店のプレゼン・企画書の文言が透けて見えてくるような「底の浅さ」、まるで時代・社会の写し鏡のようでいただけなかった。