2ペンスの希望

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映画館 暗闇世代 から スマホ 配信世代 へ

義肢には、外観を補うための「装飾義手」と機能面を重視し動かせる「能動義手」や「筋電義手」があることも伊藤 本『記憶する体』 で知った。「能動義手」は、体幹や反対の腕を使ってハーネスを動かして操作する。「筋電義手」は、脳からの指令で「筋電位」という微弱な電流を発生させ、それを感知して筋肉が収縮する仕組みで動く。高価だが本物の手と同じ感覚で動かせるというメリットがある。以前は技術的な限界で、装飾義肢やちゃちな「能動義手」しかなかったのが、技術進化で「動かそうと思えば動く筋電義手」が出来るようになった。さらに、3Dプリンターの実現で、これまでより格段に安く手に入るようになりつつあるそうだ。

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 伊藤本『記憶する体』の「エピローグ:身体の考古学」にはこんな記述があった。

体の記憶とは、二つの作用が絡み合ってできるものなのです。一つは、ただ黙って眺めるしかない「自然」の作用の結果としての側面。もう一つは、意識的な介入によってもたらされる「人為」の結果としての側面です。

このうち、「人為」の側面に関しては、その人の性格や趣味、職業といった個人的な条件のみならず、その人が生まれた時代や、そのときの社会状況によっても大きく左右されます。なぜなら、自分の体にどのように介入するかは、その人が利用しえた科学技術の水準と密接な関係があるからです。(中略)筋電義手第一世代は、筋電義手がない状態で成立している体がどのようなものか知っています。けれども、次の世代は、物心つくかつかないの頃から筋電義手を使って生活するようになる可能性があります。いわば「筋電義手ネイチャー」です。そのような世代にとっては、「義手と自分の手から成る両手」の感覚が当たり前になるかもしれず、そうなれば上の世代と「ジェネレーションギャップ」が生じることになるでしょう。もっとも、 成長した「筋電義手ネイチャー」の子供たちが、親にあてがわれた筋電義手を嫌って、義手なしで片手で生きるという選択をする可能性もあります。(中略)

いずれにせよ、どの時代、どの社会状況にも、それに応じた選択肢の幅があり、それぞれの人がそこから何らかの選択をして、自らの体を作り上げていく。この事実は、いかに科学技術が発達したとしても、変わりません。(太字は引用者)

時代の科学技術水準の中で生きるのは、映画でも同じだ。フィルムの時代、制約多く重たいキャメラ しかなかった時代、暗闇の映画館で育った世代と、高機能スチールカメラ・スマホで撮影し、配信で観る世代には当然「ジェネレーションギャップ」が確実にある。絶対ある。

当管理人は暗闇世代のロートルの一員だが、「昔の方が良かった」「昔に戻れ」とは絶対に言いたくない。是非とも「新しい自然」を全身で享受し、「新しい人為」を全力で実現してほしいものだ。心から、そう願う。

昔に戻る必要などさらさらないけれど、昔々の人が造った成果物の精華をたっぷりと浴びてほしいとは思っている。

そのために、こんなメッセージを送りたい。⇓

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(伊藤本にちなんだ項目は、一応ここまで。でも、また 続きあるかも‥)