2ペンスの希望

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映画を見るのは「未来の人」

 数日前に、小森はるかさんの映画『砂連尾理 ダンス公演「猿とモルターレ」映像記録』を見てきた。2017年3月に大阪・茨木市市民総合センターで上演されたダンス公演を記録した110分。新しい映画だと感じて、とても面白かった。なかで、目をひらかされる言葉に出会った。

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冒頭に、ダンサーや演劇を学ぶ高校生や朗読を担当する女性たちの井戸端会議風の座談が出てくる。そこに、「記録者」の一員として参加する酒井耕さんが加わり、こんなことを話す。「舞台の記録と言えば、客席側に(何台か)カメラを据えて舞台全体を撮るのが普通だが、今回は舞台に上がってもカメラを廻してみたい。なぜなら、(ダンス公演は現場一回性だが)映画を見るのは「未来の人」だから。記録者として未来の人に繋ぎたい。(演者や観客の皆さんには目障りかもしれないけれどよろしく)」といった内容だった。(うろ覚えで書いているので、正確ではない。ゴメンナサイ。) 

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分かり難いが、演者の後ろ、上記の写真:舞台奥のホリゾントの前で三脚を立てカメラを回す酒井さんの姿が見えるだろう。

 酒井耕さんはどこかで「カメラに撮られることによる身体の変化を観察する。出来事がメディアで記録され、時間と空間を超えて読み継がれ読み直されていくことの危うさや可能性について考えたい」とも語っている。(これも、ネット散策中に読んだ記憶なので、うろ覚え) 

目から鱗だった。(なんだ、当たり前じゃん、なんて言わないでくださいね)

確かにそうだ、と、6年ほど前のブログを思い出した。

kobe-yama.hatenablog.com

この時は、映画の中にフォーカスして書いたが、言われてみれば、映画を見る人は、いずれも「未来の人」だ。いつだって決まって絶対に、そうだ。

すべての映画は例外なく「未来の人」に向けた「練り製品」・「過去の缶詰」なのである。 いい言葉だなぁ~、と、自画自賛