「〈説明〉に終わっては駄目だ、〈描写〉になっていなければいけないーーずっとそう言われてやってきた。ちょっと前にも小説家三浦しをんさんの本をだしに、〈説明〉と〈描写〉のエピソードを書いた。
けど、ちょっと待てよ、もしかしてその先もあるんじゃないか、そう考えていて、ふとロベール・ブレッソンの言葉を思い出した。どこで読んだのか、(『シネマトグラフ覚書 ー映画監督のノートー 』【1987.11.1. 筑摩書房 刊 松浦寿輝 譯】だったと記憶するが、書棚に見つからないので確認できないまま続ける。)「私が求めているのは、描写ではなく事実のヴィジョンなのです。」とあった。 んっ? 「事実のヴィジョン」?? 日本語に訳せなかったのか、わざと訳さず含意を込めてそのままにしたのか‥強く印象に残っていた。(さらに、確かめるすべはないが‥)
Vision:洞察力とか、先見性、先行き、展望、将来像、目指す(べき)もの、見通し、あるべき姿、あらまほしき像、‥‥、あてはまりそうな言葉はいっぱい出て来る。一方で、即物的に、視力、視覚を指し、幻覚・幻想・幻像といった意味もあるようだ。
安物の映画は〈説明〉に終始し、並の映画は〈描写〉で現実・リアルに迫り、ほんの少しの映画だけがその先の〈ヴィジョン〉を示すに至る、そういうことかもしれない。「〈描写〉で描ける世界は、現実・現状・現況、所詮リアルまで、映画はその先のヴィジョンまで進駐すべきなのだ、その力を持っていることに思いを馳せよ」ブレッソンはそんな風に言いたかったのかもしれないなぁ、なんて妄想した。
ブレッソンは、いつも刺激的だ。映画も言葉もいつだっていつまでも謎に満ちて蠱惑的。
映画を志す人々の必携テキストの一つだと思っている。