時代はドンドン入り組んで、ますます複雑になっている。だれにでもわかり白黒ハッキリしたしろものなんて見当たらない。すべてはグレートーンで拡がっている。そんな現実世界では、勝負どこはどこでどう折り合うかだ。〇か✖かではない。妥協点の探り合い、何を持っているか、まわりには何があるか、誰がいるか‥‥。
折り合いとか利害打算・妥協といえば、イメージは芳しくはない。けど、我々は、複雑怪奇な時代に生きている。どこにも単純明快なものは見当たらない。
世の中のすべては「あいだ」にある。あるものでつくる。無い袖は振れない。映画だって同じこと。無い物ねだりしたってなにも始まらない。泣き言や愚痴は慎んで、ギリギリと妥協点・折り合いのつばぜり合いを重ねる方が健康的だろう。
ブレイディみかこさんの本『他人の靴を履いてみる アナーキー・エンパシーのすすめ』【2021 文藝春秋】にはインド洋交易での海賊船やアメリカ大陸の先住民たちの交渉術を紹介している。お互いに、違いが存在することを認め合い、どこまでなら譲り合えるかを擦り合い、擦り合わせる「折り合いのつけ方」が「世渡りの方法」だとある。
フランス文学者だった渡辺一夫はかつてこう書いた。「僕は、人間の想像力と利害打算とを信ずる。人間が想像力を増し、更に高度な利害打算に長ずるようになれば、否応なしに、寛容のほうを選ぶようになるだろうとも思っている。僕は、ここでもわざと、利害打算という思わしくない言葉を用いる。」【1951『渡辺一夫随筆集 寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか』】
折り合いから生まれる寛容。その涵養が肝要かも。