2ペンスの希望

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教訓 その壱 歴史の文脈・現場に返すこと、帰ること。

大学時代の友人が、久しぶりに書下ろし本を出した。北中正和ビートルズ』【2021.09.20 新潮新書

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ビートルズほど多くの本が出版され語られてきた音楽家は他にいないでしょう。」こんな書き出しで始まる。

それなのにビートルズについての本を書いてしまいました。定説を大きく覆すような事実や資料が新たに発掘、発見されたからではありません。ポールと握手した以外、回想録が書けるほどビートルズ接触した個人的体験を持っているわけでもありません。それなのになぜ?

矛盾するようですが、それは数えきれないほどの本が出版されているからです。本が増えるにつれて、重複を避けるための専門化が進み、細部の記述が詳しさを増しています。しかし皮肉なことに、細部に詳しければ詳しいほど、ビートルズの全体像がかえって見えにくくなっているようにも感じられます。‥‥中略‥‥この本ではむしろ森林浴のようにビートルズの魅力を味わい、その背景や歴史に思いをはせ、かつて受けた印象やいま受ける印象について語ろうと思います。解散から半世紀以上たったいまだから俯瞰的に見やすいことも確かです。

この本にはいろんな曲やミュージシャンが登場しますが、ほとんどYouTubeや各種ストリーミングサーヴィスで見たり聞いたりできますから、確認しながら読んでいただくとわかりやすいでしょう。便利な時代になったものです。

後進の音楽ライターの野田努さんの書評が的を射て素敵だった。サワリを少々。

「おそらく本書が他のビートルズ本と決定的に違うのは、著者ならではのグローバル・ミュージック的なアプローチによって、21世紀の現在からビートルズを捉え直している点にある。その現在とはブラック・ライヴズ・マター以降の現在であり、インターネット普及後の現在でもある。インターネットによって古いものは古くなくなり、若いロック・ファンは同世代の新譜よりも90年代のオアシスに夢中になる。悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる“イエスタデイ”を喪失した現在。時間の感覚も歴史感覚も20世紀とは何か違っている。
 本書『ビートルズ』が試みている「世界史のなかのビートルズ」という視点は、時代(60年代)からも場所(リヴァプール)からも完璧に切り離されてしまっているビートルズをもういちど汗だくのキャバーン・クラブのステージに上げ、労働者で賑わう港町を徘徊してもらうばかりか、それ以前からあった、彼らが生まれ育った環境から聞こえる音楽、つまり大衆音楽の大いなるうねりのような、いわばその大河へと案内する。その大河とは、昼も夜もない眩しい現在という光に隠されて、もはやあまり語られることもないかもしれない大切な過去のことであろう。

「古いものは古くなくなり悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる」今日この頃=便利な時代は、不便な時代でもあるという(このお二人の)嘆息・皮肉は、管理人も日々感じるところだ。

興味を持たれた方は、全文を是非。⇓

www.ele-king.net

さて、本題。

"ビートルズ"の存在を映画の世界に置き換えるなら、"ゴダール"ということになろうか。歴史を変えた分岐点。映画に出会った若い衆が、好むと好まざるにかかわらず、避けて取ることのできない巨人・巨像だろう。(含む:巨像を虚像だとする人士も)

その来歴・全体像をその時代・場所の空気を損なうことなく丸ごと味わい尽くす試み、それは浴びるほどビートルズを聞いて生きてきた北中世代の特権であり、同時に重要な責務・責任なのだ。

同様に、遅れてきた若い世代に向けて「権威としてのゴダール」ではなく、「生成としてのゴダール」を提示し続けることは、ゴダールを同時代に走り眺めてきた先行映画世代の仕事である。

「古いものは古くなくなり悪酔いしそうなほどすべてがフラットに広がる」映画史の蓄積を今一度、

歴史の文脈・現場に返すこと、帰ること。コレが、教訓その壱だ。