2ペンスの希望

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教訓 その参 未踏の沃野はすぐそばの遥か彼方に。

 

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映画が生まれてとうに百年を超えた。数千年の蓄積を持つ他の表現物に比べれば、まだほんのヒヨッコ、ヨチヨチ歩きの新参者に過ぎない。なのに、劣化が激しい。このままいけば、日本の映画は若木のまま立ち枯れてしまうんじゃないか‥‥そんな懸念から逃れられないでいる。杞憂だと嗤われそうだが‥その昔の日本映画の精進・精華を多少なりとも知ってきた世代としては、見過ごせない。

日本の映画状況は、玉石混交を通り越して液状化が止まらない、そんな思いに駆られて仕方がない。液状化をなんとかとめて、新しい土地を開墾する道が拓けないものだろうか、いやいや、もはや、未踏の沃野なんてどこにも残っていない、当分は泥濘の道を歩むのみ、長い雌伏・暗中模索を生きるしか無いんじゃないか、‥‥思いは日々千々にみだれるばかりだ。

哲学者の千葉雅也は著書『勉強の哲学』にまつわるインタビューに、こう答えている。

90年代までは、文化のデータベースをつくっていく時代で、まだまだコードの外に新しいものがあると期待する事ができました。しかし2000年代を経て、ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大方の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしまった。【「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義〝以後〟を切り拓く「勉強」論 】

NHKエンタープライズの丸山俊一は、編著『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』の末尾に、こう記す。【2017.04.25 NHK出版 刊】

そして今、様々なジャンルに細分化された、「サブカル」空間が広がる時代となった。そこには、どこにも「中心」を見つけ出すことも、「周縁」を発見することも難しい、広大なタコツボがあるように思える。

支配的なコード(鋳型)は出尽くした。更地は無く、あらゆることはやりつくされ未踏の沃野はあだおろそかには見当たらない。しかも、すべてはタコツボの中の自足、コップの中の嵐、‥‥。

本当にそうなのだろうか、

確かに時代は変わった。中心・中央は崩れ、誰もがインターネットという擬似「どこでもドア」を手にさらりとトライを始める新しい時代が到来している。デジタルネイティブ世代にとってはことさらそうだろう。だが、閉塞感・不安感は何時の時代にだってあった筈だ。だからこそ、歴史から学ぶべしなのだ。仔細にかつ大胆に歴史をふまえ、現場を再発見することを切に願う。

新しい彼らに伝えたい教訓シリーズその参は、「未踏の沃野はすぐそばの遥か彼方にある」そのために歴史をしゃぶりつくせ。コレだ。