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脚本家と監督:熟慮断行

今はどうだか知らないが、かつて映画の世界では脚本家のことは「ほんや」と呼んでいた。映画の骨格をつくる最重要パートだが、自称・他称に‥少量 自嘲も込めて。

いくぶん、監督より知名度は落ちる。低く見られてきたようにも感じる。確かに、書かれた「文字」を「画」にするのは監督だ。

人物の動かし方、位置関係、目線のやりとり、その上下、衣装 一式(頭のてっぺんから足元履物 装身具迄)、小道具 持ち道具、画面構成(アングル サイズ レンズ)、などなど気を配るべきことは山ほどある。撮影を終わり編集仕上げに入ったらなおさらだ。カットの長さ、シーンの前後 入替え、編集のリズム(「シーンからシーンへの推移の呼吸」©寺田寅彦)、音楽・効果音の使い方 などなど、そこに脚本家の出る幕はない。監督優位。監督偏重。出来の良し悪し毀誉褒貶はすべて監督が引き受ける。その通りだろう。けど、だからといって脚本が軽視されてはいけない。いただけない。

テレビの世界は違うみたい。脚本家重視。脚本家尊重だ。演出家の名はさておき、脚本家の名前がクレジットされ注目を浴びる。昔なら 山田太一 倉本聰 向田邦子‥‥橋田寿賀子、今なら さしずめ坂元裕二あたりか。

そんなことをつらつら考えていたら、尾崎将也さんというテレビドラマの脚本家のこんな文章に出会った。【2017.5.13. 「脚本家と監督の違い」(ameblo 《カントクのお仕事》)】

僕は脚本家としては20年以上の経験がありますが、映画の監督をするのは今回でまだ二本目。慣れない新米監督です。脚本家と監督は当然のことながら、かなり違う仕事です。脚本はずっと机に向かって作業し、たまに打ち合わせはありますが、会うのはプロデューサーや監督など限られた人たちです。監督は毎日現場に行き、たくさんのスタッフ、キャストに囲まれてコミュニケーションを取りながらする仕事です。
 僕は普段無口なので、僕を知っている人は、監督をやったと聞くと不思議に思うようです。「喋らないでどうやって監督するの?」と。一応、現場では必要なことは話します。十分かどうかはわかりませんが。
 しかし監督をやってみてわかった脚本と監督の一番大きな違いは、「喋らなければいけない」ということではありません。脚本家も打ち合わせでは喋ることが必要です。それより僕が感じた監督と脚本家の一番大きな違いは、「監督は即断即決が求められる」ということです。

 脚本を書くときは、長時間考え込むということは普通のことです。打ち合わせの場でも「ここどうしよう」と問題にぶつかったときに20分も30分も考え込むことはしょっちゅうです。「こういうのはどう?」「うーん、なんか違う」などど言いながら、「それだ!」という案が出るまでああでもないこうでもないと考え続けるのです。また一度書いた原稿も、撮影の期日が迫らないうちはいくらでも直すことが出来ます。極端な場合は、台本をもう印刷してしまった後で「やっぱり直そう」と思ってプロデューサーに電話し、「あのシーン直したいんですけど、まだ撮ってませんよね」などと言うこともあります。脚本はギリギリまで「うだうだと考えたり、やり直したり」ということが可能な作業なのです。

 それに対して、監督は考える時間が限られる仕事です。現場ではスタッフが小道具の候補をいくつか持って来て「どれがいいですか」と聞かれるようなことが頻繁にあります。このとき「うーん、しばらく考えさせて」などと言っているとなかなか作業が進みません。早く結論を出して指示する必要があるのです。
 本番のカメラを回したときもそうです。俳優に対して今の演技でOKかどうか、もう一度やり直すとすればどこを変更するかをすぐに言わなければなりません。ここで「うーん、どうしよう。ちょっと時間くれる?」などと言っていたのでは、「ダメだな、この監督」と思われてしまいそうな雰囲気です。
 昔の監督の逸話では、自分が迷っているのを隠すためにセットにケチをつけて直させて時間を稼いだような話がありますが、今回のように予算と時間が限られた作品では、そんなことをしている余裕はありません。今日中にこれだけのカットを撮り終わらないといけないというときに、あんまり時間をかけて悩んでいる余裕はないのです。
 そして一回OKを出したら、後になって「やっぱりやり直し」ということが出来るケースはほとんどありません。次のロケ場所に移動したり、俳優が衣装替えをしたりしてしまうので、もう一度やり直す場合は、すぐにその判断をして、どこを直すか指示しなければならないのです。

なるほど。「即断即決」という尾崎さんの指摘もよくわかる。が、より正確には「熟慮断行」というべきだろう。撮影現場に入る前にどれだけ考えることが出来るか、タクシーメーターが倒されないうちに「熟慮」し、現場に入ったらエイヤッと決めて「断行」する。それが一番。

映画の骨組み・骨格・構造をつくるのが、脚本家の仕事なら、そこに筋肉をつけ、血を流れさせ表情豊かでチャーミングな生き物に仕立てるのが監督の仕事脚本家とは別の視点視角からカンガエ、キメル仕事だ。つまりは、エラブコトステルコトだと思う。

どっちがエライ、タイヘンということじゃない。どっちもダイジ。

物語 >画 ではなく、 画 >物語 でもなく、物語+絵、両方揃ってはじめて映画なのだ。

映画作家の単独行がすすんで、タッグ、チーム、スタッフワークが痩せていくのを見るのは情けない。しのびない。