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「素人にかえる」技術

五歳から映画の仕事に就いた高峰秀子は、演技や俳優についても幾つか綴っている。

三十年俳優をやって得た結論は、「素人にかえる」ということです。どんなにうまくても、作為の見える演技は嫌いなのです。自然には、新しいも古いもありません。結局〝演技論〟などというより、ひとりひとりがやってみる以外にないんじゃないかしら。その人自身の体で。頭の中でひねくりまわしても出てくるものではありません。

演技の常識ということでも、その人によって違うものなのでしょう。私の場合は、その映画からはみださないことどうやってフレームの中におさまるかいつもそのことを考えます。【「私は私」『映画芸術』1958年2月号 】

宮本三郎

杉村春子との対談ではこんなこともいっている。

高峰:私の目標はニュース映画だから‥‥。舞台の人は、映画のアップむずかしいといっていますね。

杉村:そうですよ。私もアップっていわれるとイヤーな気がして、キャメラが寄ってくると、どうしても正面向きたくないの。

高峰:だって同じでしょ?やっぱり身体中で芝居して、その芝居を主に顔のほうへ持ってくればいい。

杉村:そうよ、そりゃそうだけど。ほんとに顔だけで芝居してもダメで、身体で芝居しなきゃできないように、テレビの今の若い人たちね。テレビって胸から上が多いでしょ?いちおう何かやってるようでも、いっしょに芝居の稽古なんかすると、胸から下がなんにもいわない、歩くことさえできないの、立ってるつもりかもしれないけど、立ってもいないわ、映画の人はそういうカンを持っていますよ。やっぱり技術ですものね

高峰:映画はパズルですね。舞台は初めから順にやって、お芝居が盛り上がれば涙も出るかもしれないけど、映画はメチャメチャにコマ切れ演技でしょう?今日1カットとっておいて、つづきは来月だなんて‥‥。そういうのを台本もらってから自分で役を組み立てて、さて出来上がったら自分の思ったとおり、サーッとその人間が通っている。これ、やっぱり舞台にはない楽しみかもしれませんよ。【対談集『いっぴきの虫』】

舞台では、スポットライトが一人一人の俳優を照らして行くし、極端に言えば、板の上を歩いている芝居なので、誇張された演技も必要なのでしょうが、しわ一本でもむき出しに写る映画では、何をどう作っても、かくし切れるものではあり得ないし、舞台以上のよりらしいうそを追うためには、そしてフレームの中におさまって演技するということから、私は自然な姿の方が好ましいと思います。形に上よりも、役の人物の気持になることが表現の手がかりになるでしょう。たとえば、役がきまってから、あわててその役を研究しに行っても、表面だけのことしかわかるはずがないし、それよりふだんの生活の中で、知識や理解力を深めることが、何よりも役者にとっては必要だと思います。その上で、役の人物の立場や、まわりとの関係などに注意を払って行けば、その人物を通して、もっと大きなものも表現できるようになるんじゃないでしょうか。

自然な、といっても、素人にかえるといっても、演技は、見せるものであるにはちがいないのです。

高峰は、終生 フレームからはみ出した熱演・力演を嫌ったプロフェッショナル技術者だった。「わざおぎ」という古い言葉を思い出す。