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三通りの「否(ノン)」⇒ 「一歩後ろに下がって」

昨日からの続き。カイエ・デュ・シネマ編集部編『作家主義[新装改訂版]

セルジュ・ダネーは序文の「結局」にこう書いている。

1950年代半ば、「作家主義」に対しては、三通りの「否(ノン)」が突き付けられた。

ひとつめのタイプは、

一本の映画とはさまざまな職業集団が互いに調和して融合した結果であり、監督 réalisateur レアリザトゥール:フランス語では「実現者」の意味)はクレジットにあるすべての名前に刻まれた潜在性を「実現する (réaliser アリゼ)」者でしかない。

ふたつめは、

その作家のほかの作品すべてに関してその人物が「至極当然」のように作家だと主張できるという点を理解できない。なかには「注文品にすぎなかったし」「場当たり的に作られたように見え」るのも混じっているのではないか、という主張。

三つめのタイプは、

研究するのはいいが、だったらなぜ昔から作家だったような者たち、あからさまに作家で、ときに劇的なまでに作家だった監督をあつかうだけで満足しないのか、という意見。グリフィスからウェルズにいたる系譜であり、そこにはチャップリンやスタンバーグシュトロハイムなどが含まれる。いや、もっというなら、揺らいでなかば崩壊している古きヨーロッパで活躍する映画作家にこそお似合い。(ここには多分エイゼンシュタインなども含まれる)どうしてそこに「ほかの監督よりいくらかは器用であっても結局はB級映画の監督に過ぎない」ハワード・ホークスや「腕のいい仕立屋としてしか見られてこなかった」アルフレッド・ヒッチコックまでを加えて顕揚しようとするのか。

というわけだ。

 

当管理人はどの立場にも共感を覚える。

そこで提案。

半世紀を過ぎ、ハリウッドも含め世界の映画産業は変容し、配信・サブスク時代が始まっている今、行き過ぎた映画の「作家主義」を批判的に検証し、そろそろ新しい時代の映画の充血を準備する時機ではなかろうか。

これらのすべてを繰り込みながら、映画の歴史に新しい一ページ・新しいテーゼ(というか 倫理)のムーブメントが興ればよいのになあ。心からそう思っている。

集団制作→受容・循環、玉石混交を通り越した液状化歯止め、東京一極集中・中央集権から地方分権・地域独立・群雄割拠、多様化とネットワーク、グローバルとローカル両様・両用‥‥検討課題・項目は山ほどある。

奥はダネー 手前の横顔はJ.L.ゴダール

セルジュ・ダネーは、1984年仏レトワール出版/カイエ・デュ・シネマ社からの新装版に既にこう記している。

一九八四年の今になって「一歩後ろに下がって」みると、量産品映画が危機に陥り、それにともなって試作品映画の可能性が解き放たれたのだと考えてもいいだろう。(註:太字強調はセルジュ・ダネーの原文&須藤訳文のママ)

さらに末尾には、こうある。

多くの人の手を介して多くの異質なものを組み合わせて作られ、一般大衆の同意に委ねられる映画というかくも不純な芸術では、あるシステム――つまりはある規範――との関係においてしか作家――つまりは特異性――は存在しないと考えるのがもっともではないか。‥‥作家とは、たんに万難を排して自分を表現する力を見いだす者ではなく、自分を表現しながら、自分が離れようとしているシステムの真実を告げるために適切な距離を見いだす者のことだろう。‥‥作家とは極言すれば逃走線のことだ。

そのとおりダネー。いたく共感。

そろそろ試作品映画・半完成品映画じゃあなくって、ホントの新しい映画に出会いたいものダネー。「種子」でも「蕾」でも見つけられたらなぁ。