『千代田区一番一号のラビリンス』森達也の新作。といっても映画じゃない。小説だ。
例によって、帯の惹句はセンセーショナルだが、なに、それほどスキャンダラスじゃない。(幾分 あざとくはあるけれど。)『池袋シネマ青春譜』に続く森達也の半自伝的フィクション。テレビマン時代の是枝裕和はじめテレビドキュメンタリーのディレクター諸氏や明仁や美智子などが登場する。とはいえ、あくまで「作り物」。
「言わずもがなのお断りを最後にひとつだけ。これは小説です。実在する人と同じ名前が文中には頻繁に登場するけれど、あくまでもフィクション。架空の人物も大勢いるし、主人公だって、僕自身とは微妙に違う。何より僕は、これほどに内省的なキャラクターじゃない。」【 前作『池袋シネマ青春譜』あとがき より】
いやいや、森達也 結構しつこくて内省的だ。軸はぶれない。映画とテレビ、フィクションとノンフィクションの往還・あわいを問い続けて一貫している。
印象に残った箇所を二つほど。
「良いドキュメンタリー映画は、息づくのよ」
「映像は主観なのだ。同じ状況でもどの位置から撮るかで表出された世界はまったく変わる。そもそも情報は視点なのだ。どこから見るかで形が変わる。」(太字強調は引用者)
特段 新しい視界を拓いてくれるわけではない。格別 目新しい知見も見当たらない。だが、表現を志す人が道を踏み外さないための基本知識・初級編として押さえておいて損はない。
ただ、「記録する」ということ。それを「発表し」「遺す」ということ‥‥それがパパラッチやイエロージャーナリズムとどこでどう違うのか‥‥こうした設問は 未決のまま目の前に拡がっている。永遠の「宿題」かな?