⑤はマキノ雅弘 1908(M41)年2月 生。「本名 牧野正唯 まきのまさただ。生まれながらの活動屋.。わかっているだけで生涯に261本の映画を撮った。正唯→正博→雅弘→雅裕→雅広 と名前を変え、脚本書きのペンネームも マキノ陶六 (まきのすえろく)牧陶六 牧野正雄 青山正雄 立春大吉 江戸川浩二 観世光太など多数にのぼる。」(出典:ウイキペディア)
「週替わり二本立て・プログラムピクチャ-育ち」の上野昂志は、遅れてきて〝作家〟としてマキノを〝発見〟した世代・評論家に対してこんなふうに書いている。
個人の名をもった作家の存在といったものを、まるで疑いようもない前提にしているような論議は、違和感ではすまない割り切れなさを覚える。それが、とりわけ、マキノ雅弘という名をあげるときには。いったいマキノというのは、正博にしろあるいは雅弘にしろ、はたして一人の個人なのだろうか。そのことを疑ってみないと何事も始まらないような気がするが、これはたんなるわたしの錯覚でなければ思い過ごしであろうか。(「シネアスト3 マキノ雅裕」1985年11月)
そう書いたうえで、上野はマキノの基軸を「複数的なるもの」と捉える。
集団劇=複数の人間がぶつかりあい、弾けあうところで素晴らしく溌剌としアッ力を発揮。無名の複数の役者たちを、まさしくその集団性において活かす『浪人街』シリーズ(マキノ・プロ御室 1928-29) 集団劇『次郎長三国志』シリーズ(1952-54 東宝)
リピートの大家=一つの素材を二度三度と反復して作り変える複数性
複数キャメラ=彼は同時に幾台ものキャメラを使って撮影する名手だった
ということで(?)、多産多作 多彩な映画群から この一本
『昭和残侠伝 死んで貰います』(東映東京 1970)
マキノ雅弘の『昭和残侠伝 死んで貰います』は、なんともきれいな映画だった。時間は極端なまでに省略されてしまい、連続した時間は、映画の背後にたたみこまれ、画面には必要にして不可欠な行為だけがあらわれる、そしてそれは、私たちの視線のなかににじむように消えてしまうのだ。だから、私たちはその鮮やかさに嘆息し、きれいだったと呟くしかしようがないのである。(「シネマ71」1971年4月号)(太字強調は引用者)
この映画、知る人ぞ知る京都のVHS専門レンタルビデオショップ「ふや町映画タウン」の 評価では「★★★ むっちゃおすすめビデオ (おおもり選)」になってる。ということで(?)、久しぶりに予告編。