2ペンスの希望

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黄昏‥‥⑧

⑧は川島雄三 1918(T7)年2月 生。

一九三八年に松竹大船撮影所に入り、そこで二十四本の映画を撮るが、一九五四年には日活に移る。そこで九本の映画を撮ったあと。五八年には東京映画に移る。そして東宝系で十五本を撮るかたわら、大映で三本の映画を撮るのだ。三つの映画会社を移動し、東映を除く四社で撮っているのである。川島雄三の場所 雑誌「リュミエール」第4号 1986年夏)

遺伝性とも疑われるALS(筋萎縮性側索硬化症)による足の不自由を抱え、徴兵検査は不合格で即日帰郷、戦争には行かず、夜ごとスタッフと飲み歩き、家替わりに都内の行きつけの宿を泊まり歩く日々、監督作品は51本、待機作3本を抱えたまま、45歳という働き盛りで急逝‥‥、と、エピソードや伝説には事欠かず、今も若いファンが絶えない。「乱調の美学」とか「孤高のダンディズム」と評される。

上野の言葉を続ける。

改めて川島雄三というのは、どういう映画作家だったのか、と考えてみるとこれがよくわからないのである。みるほどに作家のイメージが拡散していく、といったふうなのだ。それをごく大雑把なところでいうと、作品に相当なバラつきがあるということになるのだが、それが単純に出来の良し悪しでいえないところが、奇妙なのだ。

わたしは、とりあえずそれを、川島雄三の〝いい加減さ〟と呼んでみる。いい加減さというのは、映画を作るということに対する、あるいは、どう作るかということに対する、執着のなさというか、こだわりのなさというか、とのかくそういったことだ。イメージされる一貫性というのが、曖昧なのだ。(前掲に同じ)(太字強調は引用者)

ということで、上野は『銀座二十四帖』(1955年 日活)を採り上げて語る。

これは森繁久彌のナレーションと共に始まって、前半は、銀座の花売りをしている三橋達也と、何をしてるのかは知らぬが築地の料亭を仮の宿にしている月丘夢路が、一枚の絵を介して会い、そこへ、二やけた画家に扮した安部徹がからんだり、当時の現代娘の典型といったふうの北原三枝がからんだりしながら、風俗コメディタッチで展開していく。ところが、話が絞られてくる途中から、画面の調子はにわかにフィルム・ノワールふうになり、一種の犯罪映画のタッチも持っているという奇妙に混交したものを、なにくわぬ顔をしてのうのうとつくってしまうのが、川島雄三川島雄三たる所以でもあるのだろう。(前掲に同じ)(太字強調は引用者)

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それを可能にしたには、1960年代、プログラムピクチャーが量産されていた時代の撮影所の野放図なエネルギーではなかったか、と上野は推察する。

もう少し具体的にいえば、映画はごく一部の巨匠を別にすれば、かなりの部分を、監督が作るのではなく、場が作っていたということである。場とは、撮影現場である撮影所とそこに集まるスタッフの技術力が掛け合わされたものだが、その力が、ときには監督より強かったのだ。むろん監督はその力を引き出し、自分が望む方向に組織化していくわけだが、川島雄三は、そのことに対するこだわりが、それほど強くなかったのではあるまいか。(以上、すべて「川島雄三の場所」 雑誌「リュミエール」第4号 1986年夏 より)(同じく 太字強調はすべて 引用者)

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いいなぁ、よってこって(「寄って挙(こぞ)って」「拠って凝って」)みんなで作る映画。 森繫の歌もいい味 出してる。