2ペンスの希望

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黄昏‥‥㉒

㉒は澤井信一郎 1938(S12)年8月 生。

実は 本ではもうひとり日活ロマンポルノの小沼勝も取り上げられているのだが、残念ながら管理人は小沼映画を一本も観ていないので割愛。)

娯楽映画の王道を歩んできたマキノ雅裕の弟子」で「最後の生粋の撮影所育ちの監督として」「資質としてはマイナーでありながら、商業的にメジャーたることを要請され」「スター映画をあえて引き受け」「役者の資質を見抜いたうえでの演出」によって「企業の映画の歴史にオトシマエをつけよう」としたのが澤井信一郎だ、と上野は書く。

 

上野の言葉はどこまでも具体的だ。例えば上掲『わが愛の譜うた 滝廉太郎物語』(1993年)
澤井が苦労しているのは、いかにピアノの鍵盤を動く手のアップからワンカットで彼らの姿を見せるかという点である。つまり普通ならカットを割って、実際にはピアノを弾けない(=弾いていない)俳優たちを、いかにもそれらしく見せてしまうところを、俳優自身に実際弾かせてみせように工夫(=訓練)しているのだ。事実、撮影に入る前のピアノのレッスンが大変だったようだが、その結果、彼らのピアノを弾くショットはそれ自体で非常に迫力あるものになっている。これは単純にいえば、ホンモノであることの迫力であるが、だからといって、たんに映画のなかで実際にやってみせることが迫力を生むのではない。決して本当に死んでみせることのできない映画という虚構の場で、ホンモノがたんにそれだけで力をもつはずもないからだ。ならば何がこの場の力となっているのか。制約である。音楽映画の常套的手段としてのカット割によるウソの演奏場面を、禁じ手として封じることで、アクションとしての演奏を画面に呼びこんでいるのだ。そしてそのような細部にこだわることを通して、澤井は、これを音楽に事寄せた人間ドラマとしてではなく、文字通り音楽を演奏する具体的な音楽の劇として、いわばアクションとしての音楽を見せる映画として構築しているのである。(「ガロ」1993年10月号 太字強調は引用者)

15秒のTVCMにも「細部の演出」がうかがえる。

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今回は【特別附録】:映画 豆知識=予告編 今昔

昔の予告編は、助監督が作り、それが監督になる際の力量を試すものとしてあった。しかし、いまは、それも合理化の一環としてか予告編専門の製作会社に作らせる。その担当者の腕によって、予告編の出来が左右される。だから、ずいぶんうまい人もいれば、本編ではきわめて少ない「泣かせ」のシーンだけつないで、大昔の母ものと同じ印象しか与えないような、しょうもない予告編を作る人もいるのだ。(「ガロ」1996年2月号 上野の連載「黄昏映画館」より)