㊱は佐藤真 1957(S32)9月 生。2007年9月他界。享年50。
「映画、その奇跡的時間 ――『阿賀に生きる』」はこんな気合の入った文章から始まる。
この世には、絶対に映画によってしか見ることのできない顔というものがある。たとえば、小川紳介の映画における三里塚や牧野の農民たちの顔がそうだ。あの、なんともいえない素晴らしい顔は、映画のスクリーンにおいてのみ見ることのできるものであって、地上のほかの場所では、見ることが不可能なのだ。だが、そんなふうにいうと、ただちに次のような反論が返ってくるかもしれない。すなわち、あの人たちの顔の素晴らしさは、彼ら自身の生活から生まれたものであり、映画はそれを切り取ったにすぎず、顔だけの良さをいうなら、その場へ行けば見られるはずである、と。しかし、それは、見るということについての、と同時に映画というものについての、きわめて浅はかな思いこみにすぎない。われわれが現実にできるのは、その人と対面することであって、見ることではない。見るというのは、もっと別のことなのだ。もちろん、距離を介して物を見るように人を見るという姿勢も、われわれは近代以降身につけてはきたが、そのような姿勢で小川紳介の映画のように人と対することはできないだろう。真正面から人と向き合いつつ、しかるべき瞬間にその人のもっとも美しい表情をとらえるのは、あくまでもキャメラを介しての行為であり、われわれがそれを見るのは、それが映画となってスクリーンに投影された瞬間においてである。ここに、映画そのものの、なんともいい難い不思議がある。しかし、だからといって、映画と呼ばれているもののすべてが、必ずしもそのような顔を見せてくれるわけではないし、むしろ、そのような機会がどんどん減っているのが、ほかならぬ現在なのだ。(図書新聞1992年10月24日号より 太字強調は引用者)
映画は、もしお望みならドキュメンタリー映画という限定をつけてもかまわないが、決して日常を切り取るのではなく、新しい日常を構築するのである。
そこには独自の時間が流れている。佐藤真たちは、その、たんに向こう側の時間でもなければこちら側の時間でもなく、いわばキャメラを持ち込むことによって微妙に変容した独自の時間を(それこそが映画の時間でなくて何であろう)、あやまたず掬いとっているのである。(同上 図書新聞1992年10月24日号より)
映画の時間については、こんなことも書いている。
「見ることのレッスン――『SELF AND OTHERS』」(「映画芸術」第394号 2001年春号)
写真には時間はない。それは写真そのものの本質でもあるだろう。写真は、ある日、ある時という一瞬を切り取り、そこに定着させるが、そこに持続する時間はない。あるのは一瞬である。しかし、映画には持続する時間がある。それは、ときに対象が持つ時間性から発する場合もあれば、それを凝視する時間から来る場合もある。またフィクションならば、物語の時間性もある。物語の時間を超えて、映画でしかあり得ない時間が現前するとき、われわれは得もいわれぬ喜びに満たされるという経験をする。いずれにせよ、そのような時間は、写真にはない。写真にあるのは、一瞬が永遠であるような凝固した時間である。そしてそこに、映画と写真の決定的な違いがある。
上野は、佐藤真が著した『ドキュメンタリー映画の地平』の書評も書いている。(「週刊朝日」2001年4月20日号)
本書では、十六人のドキュメンタリー作家とその作品が懇切丁寧に論じられているが、それを佐藤は、八つの方法論にくくって比較対照させている。すなわち、
「暮らしながら撮る」という方法でロバート・フラハティと小川紳介
「言葉と別の意味を生む映像」という角度からチャン・ヴァン・トゥイと亀井文夫、
「他者の眼差しと撮られる側の戸惑い」という観点からクリス・マルケルとヴィム・ヴェンダース、
「私的小宇宙の広がり」というところからジョナス・メカスと福田克彦、
「観察者」という方法からフレデリック・ワイズマンと野田真吉、
「挑発者」という姿勢からロバート・クレーマーと大島渚、
「時代の無意識」という方法からケビン・ラファティと土本典昭、
「イメージの収奪」という観点からヴィクター・マサエスヴァとトリン・T・ミンハというように。
佐藤真の八分類自体は さほどこなれた腑分けだとは思わないが‥、彼の人選とカップリングの妙は、ドキュメンタリーについて考える人には、なにがしかの参考になるかな‥と挙げて置く。