2ペンスの希望

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黄昏‥‥㊳

㊳は瀬々敬久 1960(S35)年5月 生。

学生時代16mmで『ギャングよ、向こうは晴れているか』(1985年)を作り、4年後 それを翻案したピンク映画『課外授業 暴行』(1989年 製作:国映 原題羽田へ行ってみろ、そこには海賊になったガキどもが今やと出発を待っているでデビュー。

その後、山ほどのピンク映画と何本もの一般映画(この言い方 何だかだが‥判り易いかもと敢えてこう書いておく)を作ってきた。

2004年『ユダ』についての上野の文章の一節。

これはDV(デジタルビデオ)キャメラで撮られた作品です。「映画番長」というユーロスペース製作のシリーズ企画で、瀬々監督が映画美学校の何人かの学生に監督させて、本人も『ユダ』を監督した。この「映画番長」のチラシに、瀬々監督は「ぼくたちはアルジャジーラを目指す」と書いている。日本映画は億単位の金が動く作品と、ヴィデオで撮影された予算一千万以下の作品に二極化、分離していて、ならば、われわれはゲリラ的なやり方で映画を観客に届けるほかないんじゃないか、と瀬々監督は書いています。(例によって 太字強調は引用者)

さてはて瀬々敬久監督、今や「億単位の金が動く作品」監督に成り上がった。いや、成り下がった? 人の映画人生をあれこれ言うのは、はしたない。そんな資格もつもりもないのだが‥ただ、ぽつりぽつりとではあるがずっと見続けてきた観客の一人としては、正直ちと寂しい。もっとも、初手から「番を張る」番長タイプじゃなく「砂場の一人遊び」監督だった。←この言葉、たしかピンク四天王のお仲間だったお一人が瀬々監督を評した言葉だった、と記憶する。