2ペンスの希望

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「われわれは終わった後を生きている」という気分

映画がお好きな大学の先生やアーティストはゴマンといる。そういった先生方・芸術家諸氏の映画にまつわる本もゴマンと出ている。きっと部数が読めてそこそこ売れる目算が立つのだろう。

『ドライブ・マイ・カー』論【2023.4.10.慶応義塾大学出版会 刊】

残念ながら、ダメだった。

ハラにこたえるわけでもなく、ムネにもひびかない。決してマズいわけでもないのだが、高踏的 高級過ぎて管理人のクチには合わなかった。ゴメンナサイ。なかで読めたのは、濱口竜介監督へのインタビューだけだった。。

「実作者・現場」と「研究者・解釈論考」の距離というか 齟齬・ズレが 気になって 気になって‥。

くだんの映画が世評に高く折り紙付き、よく練られ丹精込めて丁寧に作られた精緻な工芸品であることは間違いない。熱心な研究者が俎上に載せて仔細に考察・分析したくなる気持ちもよく分かる。けど、だ。億の予算を掛けてこしらえられた商業映画・エンタメ作品、シアターで公開し電波やネットで放映・配信される商品であって、博物館ミュージアムのガラスケースのなかに鎮座まします被造物でもなかろう。考証・考察より、あくまで賞味・賞玩が先だろう。

そんなことを思いながらつらつら読んでいたら、二年前劇場公開に合わせて組まれた特集記事のことを思い出した。引っ張り出して読み直してみた。

濱口竜介監督(1978年生まれ)三宅唱監督(1984年生まれ)に三浦哲哉(1976年生まれ)を加えた鼎談「われわれは終わった後を生きている」という気分

なかでは、

①映画はいずれも「一度終わってしまった」人物たちの再生の物語

②「震災以後」の日本を生きる肌感覚に並走してくれる感じ

として、「終わった後を生きている」気分が二つ 語られているが、管理人はさらに、彼らに二つの「終わった後を生きる」覚悟を感じた。

③「撮影所が無くなってしまった後」の映画作りの困難

④そもそも実写映画は、撮影の現場という「過去(終わった後)」のショットとその「事後」的な連鎖=編集という二重の「終わった後」を生きるもの。

今の日本で映画を作り続ける彼らの、映画の根っこに関わる「不安」と「切実」に、周りの研究者・学者・評論家の先生方はどれだけ気づき、なにがしかの力になれる日が来るのだろうか、さっぱりわからない、正直おぼつかない。