奇妙な体験をした。ある小説を読んだ。実在の人物を丹念に調べ上げ何年もかけて資料に当たって書かれた経済歴史小説上下巻だ。良質なモデル小説。
よく出来ていて面白かった。ただ、物語は面白いが「文学」とは違っていた。表現に美も力も感じなかった。新しい文体や文学に出会った充実感・満足感はなかった。
サクサク読めるが、何度も読みたいとは思わなかった、とでも書けば、幾分か気分が伝わるだろうか‥。
丁度二ヶ月前に、「画はないのにドラマはあった」というブログを書いた。
【 http://d.hatena.ne.jp/kobe-yama/20130217 】それをなぞれば、
「いいじゃない。別に文学でなくったって。話が面白かったなら」ということになる。確かにその通りかもしれない。しかし、若い頃からの習い性で小説を読む愉しみの一部には「文体」の味わいがある。本はそう思って読んできた。波瀾万丈のストーリーもよいけれど、言葉によってのみ可能な新しい時空間をも体験したいのだ。文体とか言葉の美学なんぞにこだわるのはもはや時代遅れなのか。小説には文体が欲しいし、映画には画が欲しい。そう思うのは欲張りか。
たまたま、ラジオで作者が話しているのを聴いた。「書かれているエピソードにフィクションはほとんど無く、登場人物も脇役に至るまですべて実在・実話。資料を調べていくうちに身震いするほど感動した。日本にこんな凄い男がいたなんて‥この男のことを知ってもらいたい、それが執筆の動機・キッカケ。資料を肉付けして、読者の前に生きた人間としてどう差し出すかだけを心がけた」と語っていた。
最近、実話・本当にあった話(出来事)が持てはやされる傾向がとみに強い。
みんな実話・事実の裏書を求めて安心する。逆に、
フィクションの衰弱が目立つ。事実無根のでっち上げ、作りものは影が薄い。
なんだか窮屈な世の中だ。
この作者、別の本ではこんなふうに書いている。「小説家の仕事というのはぶっちゃけて言えば、『面白い話を聞かせるから、金をくれ!』という奇妙奇天烈な職業だ。」正しい。
こちらはある業界の内幕モノ。ひねりも利き辛口で結末も鮮やか、更に面白くサクサク読んだ。もっとも「毎日、ブログを更新するような人間は、表現したい、訴えたい、自分を理解して欲しい、という強烈な欲望の持ち主なんだ。」というくだりもあって、苦笑した。おっしゃるとおりだ、よく当たってる。
深い観察力に基づいた達者なストーリーテラーが活躍する時代は、けっして悪くない。
ただし『面白い話を面白く聞かせる』=「文体」問題は未解決のまま残っている。