2ペンスの希望

映画言論活動中です

2013-01-01から1年間の記事一覧

怒り

「森粼映画は、怒劇だ」と書いたら、お前さんのブログはさしずめ怒ブログだ、と知人から冷やかされた。確かに。ブログを始めるまで自分がこんなに怒りっぽい性格だとは全く思わなかった。 昔は良かった凄かったとは口が裂けても言いたくない方なのだが、 昔…

「性格さえ描かれていれば、それで良い」

知らなかった。森崎東監督は小津安二郎を敬愛している。怒劇の作家森崎から小津までは結構距離がある=遠い そう思ってきた。浅はかだった。『頭は一つずつ配給されている』の一節。小津の言葉が引かれ、森崎監督が続けて語る。 「小津監督は言う。 「映画に…

怒劇

いちいちごもっともなので読み始めたら止まらない 森粼本『頭は一つずつ配給されている』 続き。 「Bさん(森粼映画常連の女優さん)、あなたも知っても通り、僕はこれまで悲劇を作らずにきました。作ったのは大半がスベったり転んだりの喜劇でした。でも会…

『頭は一つずつ配給されている』

森粼東監督の本『頭は一つずつ配給されている』【2004年8月25日パピルスあい刊】を読んでいる。 映画の現場で鍛えられてきた言葉が並んでいて飽きない。 「何故、映画にしたいのか?と言えば、別にその映画を製作し公開したいからではなく、私自身が、その映…

フツウ

立て続けに何本か映画をみた。 1995『ベリーオーディナリーピープル予告編』第1部・第2部・第3部。 横浜在住、映画界の先輩Sさんが作った。「ベてるの家」(北海道浦河町 べてるねっとのHPには「精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点」とある)の活動…

天国と地獄

今日は『天国と地獄』予告編・日本版。アメリカ版より2分近く長い。 志村喬は『醜聞』の弁護士役から捜査本部長役に出世(?)した。ひきかえ三井弘次はどちらでも記者役(厳密には、『醜聞』では雑誌キャメラマン、『天国と地獄』では新聞記者)。二人とも…

HIGH and LOW

黒澤明『天国と地獄』のアメリカ公開予告編。1963年といえば丁度50年前だ。 ゴルゴ13ばりともソール・バスばりとも云えそうなサスペンス売り路線。 映画学生必見というNYタイムズのコメントが微笑ましい。

『醜聞』

今日はクリスマス・イブらしい。ということで(何がということでなのかは、どうか余り深く考えずにどうぞ‥)黒澤明監督の1950年『醜聞(スキャンダル)』1950年。 この年黒澤は『羅生門』も撮っている。観客の好み・好き嫌いは世の常だが、管理人にとっては …

H.マンシーニ

音楽『酒とバラの日々』1962つながりで『ティファニーで朝食を』1961。 M:ヘンリー・マンシー二 D:ブレイク・エドワーズ 堂々たるA級娯楽映画。今となっては絶滅した。 タイトルバックだけで一編のドラマになっている。お見事と言う外ない。 ト…

ジャズライブ

京都衣笠で映画音楽を中心に据えた素敵なジャズライブを愉しんできた。ギターとピアノとベースのトリオ。『マック・ザ・ナイフ』から『酒とバラの日々』までオリジナルも交えて絶妙な選曲。ラジオから流れる曲を毎日浴びるように聴いていた日々を思い出す。‥…

観察力と想像力

大切なのは、観察力と想像力だとはよく言われる。 昨日見たTVのバラエティー番組にゲスト出演していた俳人(女性)先生も、俳句の要諦はここにあるとおっしゃっていた。 観察力と想像力を育てるのは好奇心、これもよく言われる。 好奇心⇒観察力+想像力 ‥‥…

すぐ「わかる」こと

若い映画好きKさんから私信を貰った。 数日前に紹介した「想定クオリティ低下」に応えた内容だった。 私信にはこうあった。 「想定クオリティ」でいえば、映像に限らずあらゆるところで低くなっているような気がします。すぐ「わかる」ことが当たり前みたい…

フランシス子

美しい本を読んだ。 『フランシス子へ』 帯文にはこうあった。 「自らの死の三ヵ月前、吉本隆明が語った、忘れがたき最愛の猫の死」。 吉本の語りを瀧晴巳さんというライターさんが構成し文にまとめたものだ。 軽くて平明だが、重くて深い本だった。「ぼんや…

「映像は見てるが、映画はみてない」

公立図書館の新刊到着図書コーナーに玄光社MOOK『映画制作ハンドブック』という本が置いてあった。「インデペンデント映画のつくりかた」というサブタイトルがついている。へーっ、イマドキの図書館には、こんな本も置かれているのか、借り出す若い衆もいる…

辞書を引かなくてもいい映画

昨日、山田宏一さんインタビューによる和田誠さんのコメントを引いたが、その続き。【1985年キネマ旬報第833号記事「観客の椅子・監督の椅子」】 和田 わかりにくい映画がふえたことが、映画ファンを狭めたと思う。そういう新しさが好きなファンはもち…

精神だけを真似る

和暦と西暦を書いたせいでもなかろうが、 アメリカの白黒映画に並べて、日本映画も載せたくなった。 とはいえ白黒映画しかなかった時代のものではない。とっくにカラー映画が全盛(当時は「総天然色」なんて表記されていたっけ)になってから敢えて作られた 和…

「和暦・西暦」

荒川洋治さんの『文学のことば』を読んでいたら、「和暦・西暦」という文章の中にこんな一節があった。【2013年7月 岩波書店刊 36p】 「先日、「大正○○年は、一九‥‥年だっけ」といつも教えている大学院生にいったら全員が「わからない」という。 たと…

モノクロ4

『It's a Wonderful Life 素晴らしき哉、人生!』 1946年 フランク・キャプラ 監督/製作/脚本‥‥最近見直してまた唸った。 かつてはベストテン常連の名作だったが、最近は忘れられているような気がしていたら、今をときめくヒットメーカーM谷K喜センセも…

モノクロ3

『The Tarnished Angels 翼に賭ける命』 1958年 ダグラス・サーク 監督 いかにもハリウッド的な演技だが‥見せる。 アメリカの増村保造か?

モノクロ2

『Touch of Evil 黒い罠』 1958年 オーソン・ウエルズ 監督/脚本 ファーストカット 3分20秒近くに及ぶ長廻しは何度見ても圧巻。

モノクロ1

間違っても名作ベストテンに選ばれることはないが、思い出深い映画は山ほどある。 アメリカ産のモノクロ映画に絞って幾つか紹介する。 『The Naked Kiss 裸のキッス』1964年 サミュエル・フラー 監督/製作/脚本 アメリカの三隅研次か?

切開のベクトル

半月ほど前、京都で「地域発信の映画の可能性〜配給・宣伝・興行の視点から〜」というシンポジウムが開かれた。劇場支配人や配給会社プロデューサーなどをパネリストとした催しだった。年若い友人のプロデューサーが参加して、その様子を私的ノートにまとめ…

Y字路

闇の話題、続き。 兵庫県立美術館 横尾忠則「感応する風景」展の最終日に行ってきた。お目当てはY字路シリーズの新作だった。 Y字路は蠱惑的だ。特に夜のY字路には、いつもそそられる。闇に溶けていく路の奥。正しい道とは別の道を選べば、一体何処に行き着く…

闇三題

古文書その一に書いた「闇」に彷徨(さまよ)っている。 よって今日は、闇の話題 三つ。最初は、「闇歩きガイド」中野純さんのこと。 トワイライトハイク、ミッドナイトハイクなど夜の山や街を歩くナイトハイカーの草分け。知ったのは、十数年前。著書に『闇を…

古文書その三「向う側には作品だけ」

昨日に続いて、古文書その三。 「ぼくは、作家とは、作品の向う側にいるもの、すなわち作家というものをある抽象的な非在の場所を獲得しているひとりの絶対者として考えてきたのだが、それはぼくの誤解にすぎないのであって、作家もまたこちら側の世界に、す…

古文書その二「吸収と反射」

昨日に続いて、古文書つづき。 「三島由紀夫の《青空》は、いうならば「吸収する構造としての映像」=超越的なる「神」に吸い上げられる映像であり、バタイユの《青空》は、「反射する構造としての映像」=「哄笑」によって神を引き摺り下ろす映像だ。その差…

古文書その一「闇と青空」

四十年前に書いた「古文書」が発掘された。旧悪が暴露されたようできまりが悪い。 十代から二十代のはじめにかけてシネクラブ運動に参加していた。その頃の会報誌。 おそるおそる読んでみた。眼も当てられないほど酷くはなかった。(ん?いつまでたっても自…

音楽への接近

今日も「映画は音楽に近づいている」という話。 かつて映画を作るのは専門家・プロの仕事だとされてきた。それが変わってきた。 誰もが作れるようになって来た。(上手下手、出来の良し悪しについてはとりあえず不問に付す。どの世界にだって粗悪品、もどき…

「律」

四つ目は、「律」。 旋律であり、韻律。 映画にいちばん近い表現は音楽だ。そう思っている。 演劇でも文学でもない。リニアで前に進み、身を委ねるしかない。線的不可逆性と受動的拘束性(こなれの悪い表現で恐縮だが、何が言いたいのかは、おぼろげにでも伝…

「編」

映画第三の力は、「編」。 編とは、編集のこと。 つまり、つなぎであり、構成である。モンタージュであり、運動である。 あまたある断片を自在に組み上げて、命を吹き込む作業である。 命を吹き込むとはこうだ。⇒スジに骨組みを与え、骨格だけでなく、ちゃんと…