2ペンスの希望

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「性格さえ描かれていれば、それで良い」

知らなかった。森崎東監督は小津安二郎を敬愛している。怒劇の作家森崎から小津までは結構距離がある=遠い そう思ってきた。浅はかだった。『頭は一つずつ配給されている』の一節。小津の言葉が引かれ、森崎監督が続けて語る。
小津監督は言う。
 「映画には人間の性格が描かれていれば、それで良い。他にテーマとか感情とか特別念入りに描く必要はない。性格さえ生き生きと描かれていれば、それで良い」と。 たしかに映画『麦秋』を観る人は、杉村春子演じる近所のおばさんの、オッチョコチョイで憎めない性格を、目の当たりにして人間を見る感動を覚え、この映画が何を言おうとしているのかを正確に把握する。
」(太字は引用者)
小津映画では殺人はもちろん、性交シーンも全く描かれない。‥‥殺人や性交を描くより、小津さんは人間の性格を、一人ひとりの個性を描きたかったのである。‥‥
小津ファンの僕
(森崎)は、屁をひりながらラジオ体操をする『お早よう』に出てくる小父さんを思い出しては、屁をひるだけで見事に個性を描いた小津作品に驚嘆するのだ。
『お早よう』に出てくる子供の兄弟は小父さんを尊敬している。そこに理屈はない。単に体操しながら連続的に出る小父さんの屁が凄いからである。世相が変わったからでも、なんでもない。近所の小父さんの凄い屁に驚きと尊敬を感じる子供はいまでもいる。人々の感性は戦前も戦後も大して変わってはいない。‥‥
『風の中の雌鳥』という作品では、敗戦直後の世相を反映して病児の命を取り留めるために売春をする母親が描かれるが、売春のシーンは暗示的にしか描かれない。‥‥
今ならばおそらく特に念入りに描かれるに違いないシーンを、売春が行われている次の間の鏡台を写しただけで小津さんは済ました。逃げたという批評もあった。
もちろん、批評は自由であるし、逃げたという批評が当たっていないとも言えまい。しかし、逃げたという批評は、明らかに小津さんの個性を無視している。個性には価値はないが、個性を無視するのは乱暴であり、無謀であり、その批評は間違っている。
」(初出は2000年9月雑誌『公評』特集「個性」〜「性格が描かれていれば何も要らない」)
見事な小津評である。    YouTUbeでくだんの屁を集めた映像を見つけた。

小津についての評論・評価は世界中に掃いて捨てるほどあるが、one of the best だと思う。さらに森崎監督はこう駄目押しする。
個性が個に特有の性格である以上、単なる属性であって、そこに価値はない。良い性格悪い性格というが、それはそれに付き合わされるこっちの都合であって、それも状況によってコロコロ変わるものであってみれば、一概に善し悪しは決めがたい。
早い話が自分の個性を客観的に指摘できる人が何人いるだろう。それほど個性は矛盾に満ちている。むしろ矛盾に満ちているからこそ観察に値する。
もし個性を尊重すべきものとするなら、その矛盾こそ尊重すべきだろう。天才小津は人の性格の矛盾を、この上なく尊重し、愛でた。